陸上・駅伝

特集:佐藤悠基 The Top Runner

東海大学で1年から箱根駅伝に出場、痙攣しながらも区間新記録樹立 佐藤悠基2

環境のせいにせず、自分次第でどうにでも変わる。佐藤は10代の頃からその思考を身につけていた(撮影・佐伯航平)

常に日本男子陸上長距離界の第一線を走り続けてきた佐藤悠基(34)。彼はどんな思いで競技に取り組んできて、そして今後何を目指していくのか。ロングインタビューの第2回は、東海大学に入学した理由、そして1年目から箱根駅伝で区間新記録を出したこと、その舞台裏についてです。

中学時代から世代トップ、佐久長聖高校で世界との勝負を意識 佐藤悠基1

生活環境を重視し東海大に進学

高校トップランナーだった佐藤には、多くの大学から勧誘があった。その中で佐藤が選び、2005年に入学したのは東海大学だった。なぜ東海大に進学を、と聞くと「ある程度、どこを選んでも一緒なのかなと思ってて」。練習内容が合わなかったら自分で考えればいい、環境は自分次第で変わる、と佐藤は思っていた。

重要視したのは生活環境だ。「4人部屋だけは嫌だなと思っていたんです。東海は当時、寮も新しくて下級生は2人部屋、上級生になったら1人部屋と言われて、実際には2年生から1人部屋になりました。プライベートな空間がほしいなと思っていたんです」。東海大にはキャンパス内にトラックがあり、トレーニング機器なども揃っていた。1学年上には世代の「四天王」と呼ばれた一人の伊達秀晃がいて、切磋琢磨できる。陸上に集中できる環境として申し分なかった。

当時の東海大は戦力が充実していた時期だった。2003年には全日本大学駅伝初優勝、翌年の箱根駅伝では当時過去最高位の2位。2004年は出雲駅伝4位、全日本大学駅伝8位、箱根駅伝6位の成績を残し、優勝候補にも挙げられ注目度が高まっていた。だが佐藤は「箱根駅伝には興味がなかったんです」。それまで正月は、箱根駅伝の裏番組で放送されていたドラゴンボールを毎年見ていたのだという。「でも東海大に行くことが決まったので、高3のときはちゃんと見とこう、と思って見てたら、往路優勝しました」と笑う。

スーパールーキーの伊達が2区を走り区間2位。1区からトップを守って東海大は初の往路優勝(代表撮影)

実際に東海大に入学した印象は、おおむねイメージ通り。寮でも1年生の仕事があったが、高校の時にもやってきたことだったので、辛い、大変だ、などの感覚は一切なかった。練習自体もわりと余裕を持ってこなせたと振り返る。

「ただ、大学生になったらもうちょっとキャンパスライフ、みたいな感じの雰囲気になるかと思ってたんですけど、それがなかったのは誤算でした(笑)。でもその分、競技には集中できたのかなと。当時は本当に、大学の周りにはなにもない状況でした。出かけると行っても町田に出るとかになって、めんどくさくって僕は行きませんでしたね。変な誘惑が少なく、なんだかんだいっていい4年間を過ごせたんじゃないかなと思います」

全日本大学駅伝の予選では「やらかした」

5月のゴールデンゲームズinのべおかでは、5000mを13分31秒72で走り、ジュニア日本記録を更新。ただ、6月の全日本大学駅伝予選では「やらかした」。この年の関東地区選考会では、10000mを8人が走り、その合計タイム上位7校が11月の本戦に出場できることになっていた。佐藤は1年生ながらメンバーに選ばれて走るも、足を痛めてしまい途中棄権。8人の記録が残らなかった東海大は、この年の全日本大学駅伝に出場することができなかった。「それもあって、そのあとのレースはしっかりやらないとな、と気が引き締まりました」

その言葉通り、9月の日本インカレ10000mでは28分48秒74で優勝。10月の出雲駅伝では2区を走り区間賞を獲得。東海大学の初優勝に貢献した。個人としての成長に重きを置いていた佐藤だが、やはり「チームで勝つ」ということに特別な喜びが湧き上がってきた。それまで都道府県対抗駅伝の長野県チームでの優勝はあったが、所属チームとしての優勝は初めてのことだった。

初の箱根、足がつる寸前で走り続ける

年が明け、シード校として臨んだ箱根駅伝では3区に登場。1時間02分12秒で区間新記録(当時)を更新、区間賞を獲得。スーパールーキーの評判通りの走りだった。実はこのときまで佐藤は、ハーフマラソンの距離を走ったことがなかった。「練習ですら16kmぐらいまでで、どう走ったらいいのかな? ってよくわからなかったんです」。しかも、この時は直前まであまり調子が良くなかったのだという。「当日になったらある程度不安があっても割り切って、スイッチが入るので。自分の体調はあまり気にせずいきました」

3区は東海大学の地元ということもあり、沿道での声援のすごさに驚いた。そして、15kmを過ぎた頃、初めて走っている最中に足が痙攣(けいれん)し始めた。翌年の1区を走っている際に足を気にしているのがテレビにうつり、広く知られているが、佐藤は「あ、箱根は4年間ずっと痙攣しながら走ってましたよ」と笑う。

「箱根では4年間ずっと痙攣してましたよ」とこともなげに言う(撮影・佐伯航平)

痙攣が始まった時は一瞬、焦った。力の入れ具合を調節しながら、足がつる一歩手前で保ち続け、区間新記録を樹立。「冷静に考えて、よく走れたなと思います(笑)。タイムは意識になくて、狙おうとしたわけじゃないんです」。スタート前に、サングラスを提供してくれていたオークリーの担当者が、「区間新記録を出したら、(当時最新だった)音楽を聞けるサングラスをあげるよ」と言ったのがモチベーションとなって走ったのだと思い返す。

しかしなぜ痙攣は起こったのだろうか。それは「出力の問題ではないか」という。佐藤は完全に「本番になるとスイッチが入るタイプ」で、練習ではレースペースまで追い込みきれないことがほとんどだ。意識をしているわけではないが、レースを迎えるにあたってこれぐらいの練習をしておけば、当日はこれぐらいで走れる、と計算することが当時からできた。しかし長い距離になると、パワーが出すぎることがマイナスに働き、体が持たなくなったのではないか、と考察する。

周りの環境に合わせて自分を適応させる

箱根駅伝に興味がなかった、という佐藤だが、1年生の時の走りは陸上ファンにインパクトを与え、その後も快走を期待されるようになる。箱根駅伝については「大学に入って、こういうチームに入ったからには、やらなきゃいけない最低限のことかなと思っていた」という。「長い距離を走れるようになるのは、ゆくゆくはプラスになっていくと思ったので、箱根をうまく利用して強くなっていければいいのかなと思っていました。否定するとか、やりたくないと思ったことも一切なかったですね」

ここまで話を聞いていると、彼は常に冷静にものごとを捉えているように感じられる。率直にそうぶつけてみると「基本的にまわりの環境にうまく自分を適応させる、ということしか考えてないんです。あれがないからだめとか、そういう感情を持たないようにしないといけないと思ってきました」と答える。

初の箱根で区間新を出したあと、同月にあった都道府県駅伝で長野県の3連覇に貢献(撮影・朝日新聞社)

高校のときから世界ユース、世界クロカンなどにも出場し、海外のレースを経験。日本とは違い、すべてがととのった環境、というわけではないことを身を持って経験していた。「環境が整わないと走れない」ことは、弱さにつながると考えていた。海外遠征する際も、日本食は絶対に持っていかない。現地のご飯で炭水化物を多めに採ったりなどして、自分をその場に適応させていくことを心がけていた。あえてデリケートでなく、大雑把に。多少の変化なら自分でなんとかしよう、と思ってずっとやってきたのだという。

世界を見て、立ち位置を再確認

2年生の夏には瀬古利彦さんが引率となり、中央大学の上野裕一郎(現・立教大学陸上部監督)、早稲田大学の竹澤健介(現・大阪経済大学陸上部コーチ)とヨーロッパに遠征、現地のレースを転戦した。草レースと言えるようなものから、しっかりと大きな競技場で行われるレースまでを走り、イタリアのロベレート国際では13分23秒57のタイムをマーク、これは当時の学生歴代3位だったが、順位としては8位だった。最後はゴールデンリーグ(現・ダイヤモンドリーグ)を観戦して帰国。「すごいいい経験でした」と振り返る。

どうしても国内ではちやほやされがちだが、海外では草レースですら勝てない、上には上がいるのだと改めて認識できた。「そのせいで変に天狗になることもありませんでした。常に海外思考を持っていたのが大きかったかもしれません」

機会があれば若い選手にはどんどん世界に出ていってほしいと話す(撮影・佐伯航平)

新型コロナウイルスの影響もあり、今は特に海外に行けず、レースに出ることもままらない状態が続く。しかしこの状況が落ち着いたら、若い選手にはどんどん海外に出ていってほしいと佐藤は言う。「海外のレースって、日本の常識が通じないんです。競技場に行くバスも平気で30分ぐらい遅れてくるし、いちいち気にしてたらメンタルがもたない。言ったことが守られてこないのが海外です。それはそれで面白いし、そういう経験はなかなかできないし、できる人は少ない。したほうが絶対にプラスになると思います」

順調に見えた佐藤の競技生活だが、大学後半は謎のスランプに苦しむことになる。

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記録や勝利より、うまくいかなかったことのほうが覚えている東海大4年間 佐藤悠基3

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