陸上・駅伝

特集:佐藤悠基 The Top Runner

ついにつかんだ世界の大舞台、思い知った日本人の弱さ 佐藤悠基4

10000mでの勝ちパターンを確立した佐藤は、2011年から日本選手権で4連覇した(写真は2012年、撮影・朝日新聞社)

常に日本男子陸上長距離界の第一線を走り続けてきた佐藤悠基(34)。彼はどんな思いで競技に取り組んできて、そして今後何を目指していくのか。ロングインタビューの第4回は、実業団に進みトラックで世界陸上、オリンピックの日本代表になったこと、世界トップレベルと戦って感じたことについてです。

記録や勝利より、うまくいかなかったことのほうが覚えている東海大4年間 佐藤悠基3

それまでのスランプが嘘のように走れた

大学を卒業した佐藤は、実業団の強豪・日清食品グループに入社した。卒業前の2月から日清の練習に参加していたが、それまで大学での日課だった朝の集団走をしなくなると、足の痛みが消えていった。4月のアメリカ遠征で10000mのレースを走ることになり、その前に調整で5000mのレースに出たら1348秒で「意外と走れるな」という感覚があった。そしてハミルトン招待10000mでは、273825を記録し、自己ベストを更新。これは当時日本歴代3位の記録でもあった。

「前の年から考えたら、自分でも『よくわかんない』って思うぐらいのタイムでした(笑)。5000を走ったときに意外と一発目から上出来だな、と思えるぐらい走れて、でも10000に関しては別かなと思って走っていたら、ペースメーカーがうまく引いてくれて、レースにうまく乗れました」。4年生のスランプが嘘のような、いきなりの快走。だがスランプの中でも練習をコツコツと継続していたことが結果に結びついたのかもしれない、と分析する。

大学時代のスランプが嘘みたいに走れたと笑う(撮影・佐伯航平)

レースを走る前は意識していなかったが、この結果で世界陸上ベルリン大会の参加標準記録Aを突破し、一気に世界の舞台が近づいた。日本選手権で優勝すれば出場内定を得られるという状態で迎えたが、8位に終わり出場はかなわなかった。

レース前から「ここで勝てば世界陸上に出られる」と意識しすぎて、結果を出さないといけないというプレッシャーに自分で飲まれてしまった。当日も調子がいいとは言えず、レース中も余計な動きをして勝手に一人で疲れてしまっていた、と佐藤。「1年目は個人としては全然だめですね」。だが駅伝では東日本実業団駅伝で2区区間賞、翌年元旦のニューイヤー駅伝で3区区間賞。首位に立つ走りを見せて、チームの初優勝に大きく貢献した。

個性的な集団だった日清食品グループ

当時のチームメートには、佐藤の1学年上で「四天王」と呼ばれたうちの一人、北村聡、日体大の主力選手として活躍した保科光作(現・慶應義塾大学競走部コーチ)、法政大学のエースとして、個性派ランナーとして箱根駅伝を賑わせた徳本一善(現・駿河台大学陸上部駅伝監督)、佐藤と同い年で順天堂大学の主将を務めた小野裕幸(現・慶應義塾大学競走部コーチ)、ハーフマラソン60分台の実力をもつガトゥニ・ゲディオンなどがいた。佐藤は入部してみて「思い描いた通りのチーム」だと思ったという。

社会人1年目のニューイヤー駅伝では3区区間賞で日清の初優勝に貢献(代表撮影)

「とにかく個性の集まりという感じで、競技に対しては癖の強い人たちばかりでした。しっかり結果を出さないといけない、というところではみんな決めてくる。自分より強い選手もいて、練習でも最後に競走みたいになって刺激が多かったです」。そんな環境を佐藤は面白いと思っていた。ちなみに選手たちは春先は故障していることが多かったというが、みんなしっかりニューイヤー駅伝には合わせてきていた、と笑って話す。「やっただけ、レベルの高い結果を出せば見返りが返ってくる。それはモチベーションとしてはすごく大きかったです。魅力、夢のあるチームでしたね」

準備、計画を綿密にし、ついにつかんだ日本代表

20115月のカーディナル招待で275960を出し、その年に韓国・大邱(テグ)である世界陸上の参加標準記録Bを突破した佐藤。日本選手権で優勝すれば世界陸上に出場できる。前回のような思いはもうしない、と徹底的に勝つための準備をした。「勝ち切るためにはどこでスパートするか、日本選手権を迎える前の34試合でいろんなパターンを試しました」

「勝つため」にとにかく試行錯誤し、自分なりの勝ちパターンを見つけ出した(撮影・佐伯航平)

結果的に見つけたのが、残り300mからのスパートだった。「あとは2009年はいろいろやりすぎて、レースを迎えるまでに自滅したようなところがありました。なので2週間前ぐらいまでに準備は完璧にやりきり、その後はどんと構えておこうと。監督にも相談しながら計画的に当日を迎えました」

焦らず、だが入念に準備した本番では、自分の走りに徹した。他の選手の飛び出しにも慌ててつかず、ゆっくりと追いつく。勝負のポイントにかけて力を貯めて貯めて、最後の300mで力をすべて開放して勝ちきった。このレースを今でも佐藤は「会心のレース」と振り返る。「自分で計画を練って、思い通りにレースを運べて、自信を持てる勝ちパターンを作れたのは大きかったですね」。勝ちパターンを確立したことにより、日本選手権10000mではこの年から4連覇できた。

何もできず、うちのめされた世界陸上

目指していた世界陸上の舞台。5000m2位の結果を残したが、10000mでは中盤から遅れ、15位に終わった。「全部出しきって通用しませんでした、じゃなくて、出しきれずに、出させてもらえずに不完全燃焼で終わってしまったという感じです」と振り返る。世界トップレベルのレースでは、今まで経験したことのないような揺さぶりがあった。172秒で回っていたのに、次はいきなり64秒にあげられ、そのままペースを落とさずレースが進み、振り落とされる。「そんなレースしたことなくて、めためたになったっていう感じでした。もうちょっといけるかなと思ったんですが、打ちのめされて(日本に)帰ってきました」

アジア大会5000mでは大会新記録で2位に。だが世界の舞台では力を出させてもらえなかった(撮影・朝日新聞社)

それは自分の弱さでもあり、日本人全体の弱さにもつながっているのではないかという。「日本人は記録会慣れしているので、一定のペースで押し続けていくことはできるんです。それが日本のいまの陸上界の弊害でもあるし、危惧するところだと思っています。世界で勝負しようと思ったら、ペースチェンジの激しい中でも記録を出せる選手が勝つ。先日(2012月)の日本選手権10000mで相澤くん(晃・旭化成)が日本記録を更新しましたが、あれも彼の力はもちろんですが、最高のペースメイクがあっての結果だと思うんです。あのタイムを出しつつ世界で戦えるかというと、はたしてペースの上げ下げについていけるか……。やっぱり経験した者しかわからないことがたくさんあるし、そういう意味でも海外のレースに出ていってほしいし、経験を積んでいってほしいですね」。いろんなパターンのレースを経験しておくと、いざ変化があったときに対応できる。「経験するってすごく重要だと思います」と佐藤はまた強調する。

翌年はロンドンオリンピックにも出場した佐藤。それまでトラックを主戦場としていた佐藤だが、ついにマラソンの魅力に気づき、自らもチャレンジしてみたいと思うようになる。

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ロンドン五輪を見てマラソンに挑戦、自分なりの成功法を求めて試行錯誤 佐藤悠基5

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