日大・宮﨑佑喜 中学で日本一になるも苦しみ、乗り越えつかんだ箱根駅伝の夢舞台
2019年、20年に箱根駅伝で日本大学の6区を走った宮﨑佑喜(4年、佐野日大)。中学時代にジュニアオリンピック2連覇と活躍しますが、高校では結果を出せず苦しみます。つらい時期を乗り越えて大学で競技を続け、ついに「箱根駅伝を走りたい」という幼少の頃からの夢をかなえました。大学卒業にあたって、彼自身の言葉でこれまでの陸上人生を振り返ってくれました。
陸上に出会い、中学から全国制覇
千葉県銚子市に生まれた私は、小さい時から野球・エレクトーン・書道・水泳に興味をもち、どんどんチャレンジする元気な少年だった。小学校6年生のときに市内の小学校対抗の陸上大会があり、2カ月間の特設陸上部に入部したのが陸上競技との出会いだ。もともと箱根駅伝を見ていたこともあり、長距離が好きだったが、担任の先生に「お前は瞬発力があるから、ハードル向いているよ」と言われ、80mHに取り組んだ。
走るたびに記録が伸び、全国小学生陸上競技交流大会では全国2番になれた。私の才能を見出してくれた先生にはとても感謝していて、今でも私の人生を変えてくれた恩師だと思っている。
中学生になった私は、真っ先に陸上部に入部した。短距離・ハードルで競技を続けたほうが良いと周りの方々から言われたものの、箱根駅伝の憧れを諦めきれず、本格的に長距離を始めた。走るたびに記録が出て長距離の面白さにのめり込んでいった。新たな才能を開花させ、中1ではジュニアオリンピックC男子1500m、中2ではB男子1500mと2連覇できた。
進路を考えていた中学3年の夏、恩師の紹介で栃木県の佐野日大高校の練習会に参加させていただき、中山隆先生の考え方や練習方針に惹かれた。中山先生は当時、高校生の13分台ランナーを3人、数々のインターハイ入賞者を育てていた。私も名指導者のもとで教わりたい、もっと強くなりたいと考え、佐野日大高校に進むことになった。
期待をかけられるも記録が伸びず
中3の時は目立った結果を残せなかったが、中2までの実績もあり監督やチームメートからも期待されていた。個人では日本一、チームでは全国高校駅伝(都大路)入賞を掲げ、ワクワクしながら入寮。練習は中学時代よりも量・質の面で格段にレベルアップし、1日の走行距離は2倍に増えた。
先輩方に食らいつき、必死に練習に取り組んだ。しかし現実は甘くなかった。練習はしっかりできているのに、試合になるとなぜかまったく走れず、出るたびに記録が遅くなった。夏合宿の猛練習の成果で、秋には中学時代の3000mの自己ベストを4秒だけだったが更新し、監督からも「5000mで14分台狙えるぞ、駅伝メンバーに入れるぞ!」と期待の言葉をかけてもらえた。だが5000mの初レースは16分以上かかり、その後も15分台後半からタイムは縮まらなかった。結局12月の最後の記録会でなんとか14分台を出せたが、駅伝メンバーには入れず。対称的に、同期の大森龍之介は1年目からエース級に成長。中学時代に競っていた全国のライバルたちもそれぞれ活躍しているのを見て、ただ悔しかった。
心機一転もけが、陸上をやめたいとすら思った
2年目は監督からの「きっかけをつかんでほしい」というアドバイスで3000m障害に取り組むも、県高校総体の決勝で障害に衝突してしまった。鞭打ちになり試合後10日間寝たきり、1カ月以上首にコルセットという生活。走れるようになったのは2カ月後だった。その時ぐらいから、もう走るのをやめたいと思うようになった。練習を頑張っても、中学時代の記録すら超えられない。せっかくメンバーを勝ち取り試合に出てもけがをして、純粋に好きだった走ることさえもできない。そんな生活をするぐらいなら、もうやめたい。
その思いを家族だけに伝えると、「辛くなったらいつでも帰ってきていいんだぞ!」と一言だけ言われた。それを聞いて、このまま帰ってしまったら、家族や親元を離れて頑張ると伝えた友人や恩師の先生に顔向けできない、結果がでなくても頑張ろうと思った。また先輩や同期のみんなが元気づけてくれ、「このチームのために頑張りたいな」と思うようになった。普段は厳しいことを言う監督も、「諦めるな」と背中を押してくれた。
けがから復帰したあとも鞭打ちの影響から上半身が力み、フォームを崩してしまい、タイムも出なかった。そんな私に比べ、大森は2年目でインターハイの5000mで決勝進出、5000mの自己記録も14分10秒台と着実に成長し世代のトップ候補になっていった。身近に素晴らしいお手本がいるにも関わらず、いつの間にか「俺とあいつは違う」と思うようになってしまった。そんな考えじゃ、伸びるはずはなかった。
キャプテンに指名され奮起、都大路を走り報われた
最終学年、苦しんでいる私を見て監督はキャプテンに指名してくれた。きっかけをつかむチャンスをくれ、最終学年は頑張ろうと気合に満ちあふれていた。練習ではチームを引っ張る意識を持って積極的に取り組み、最後のインターハイ予選には800mで選ばれた。しかし大会2週間前にマイコプラズマ肺炎になり、レース3日前にギリギリ治ったが、そんな状態では走れるわけもなかった。結局予選落ちで終わってしまった。
中学時代より練習しているのに、結果が出ない。中学時代は私のほうが自己記録で上回っていた選手にどんどん抜かれ、次第に「自分は早熟だから、練習しても伸びしろなんてない」と思い込むようになってしまった。最後の高校総体が終わって思いを伝えた時に、いつもは厳しい中山先生が「自分で限界を決めつけるな、早熟なんて誰が決めたんだよ! 自分に自信を持て!」と熱く語り、背中を押してくれた。
いつも明るく私のことを笑わせてくれた大森は、「最後の駅伝、都大路一緒に走るぞ!」と励ましてくれた。彼がそばで支えてくれたからこそ、高校3年間競技を続けられたと思っている。自分たち同期は6人。練習ではライバル、私生活ではみんなで遊びに行くような仲の良さで、いつも助けられていた。この学年全員で都大路を一緒に走りたいと誓い、支えてくれる人たちになんとしても恩返しをしたいと思い、より練習に対しても前向きになった。結果を出すためには何が足りないのか?をひたすら考えるようになった。
そして11月に5000mで約2年ぶりに14分台を出せた。12月の都大路のメンバー選考を兼ねた高校最後の記録会では14分48秒をマークし、ちょうど2年ぶりに自己記録を更新することができた。苦労の末に結果を出せて、とても嬉しかった。走り終わった後に中山先生が笑顔で握手してくれたことは、今でも忘れられない。
その結果もあり、都大路ではアンカーを任せられた。同学年6人全員で襷を繋ぐことはできなかったが、自分の走りによって、家族・監督・チームメート・友人などたくさんの人が喜んでくれた。入学当初から描いていた目標は達成できず、毎日が苦しいこと続きだったが、努力し続けた3年間が報われた1日だった。
周囲の後押しで「箱根駅伝を目指す」夢に向かう
最後の都大路を走れた私は、大学で競技を続けるか悩むことになった。付属校の一般入試で日大に合格していたが、元々記録が伸び悩んでいたこともあり、都大路の前までは「絶対に陸上はやらない。4月からはサークルに入って、楽しもう」と決めていた。そんな私がたった1回のレースで駅伝の、走る楽しさを味わい、思いが変わってしまった。
今の競技力のままで大学でやっていけるのか? ずっと目指してきた箱根駅伝にチャレンジできる環境があるのに、挑戦しなくてよいのか? 悩みに悩み葛藤していた。そんなときに中山先生と、当時日大の監督だった武者由幸監督は「お前なら絶対強くなれるぞ!」と応援してくれた。同期みんなも全員で箱根を目指そうと背中を押してくれた。そして陸上部に入部すると決め、箱根駅伝を目指すことになった。
余談だが、実は日大に進学が決まってからは、記録会で私の走りを見て、武者監督からは2回も熱心にお話をいただいていた。しかしその時は競技を続けませんと断っていた。そんな私のことを快く部に入れてくれ、とても感謝している。
ついにつかんだ転機、がむしゃらに勝ち取った箱根メンバー
日本大学陸上部・特別長距離部門は、総勢70人近くの部員がいて、競争が激しい環境だった。チームメートは高校時代に実績をもつ、私より強い選手ばかり。毎朝4時30分に起床し朝練習、そのあとすぐ朝食を食べ、満員電車に揺られ、1日授業を受け、夜帰ってきて練習という生活を繰り返していた。1年生は練習以外にも当番があるため、体力的にも精神的にもキツかった。
入学直後に5000mと10000mで自己記録を更新でき、良いスタートを切れた。しかしその後は練習量の増加から、走ってはけがを繰り返し、「なんとかレースにだけは合わせる」という状態。2年生の夏まではチームの中でも下の方で、箱根駅伝は遠い存在だった。
転機となったのは2年の秋、町田スポーツマッサージ接骨院の町田先生との出会いだ。私のけがや鞭打ちからくる症状に対して、適切な治療と筋力トレーニングを指導してくださった。走り方・動きにこだわるようになり、疲労を溜めないように調子を上げていくことを意識して取り組むようになった。そこから数カ月で走りが見違えるように変わっていった。
その年はレースには2つしか出場できず、大学駅伝の1番の強化期間とも言われる夏合宿にもけがで参加できていなかった。普通なら、箱根駅伝の選考からは真っ先に落ちる選手だ。しかし、日頃の練習から監督に山下りの才能を見出してもらい、下りの選考に臨んだ。11、12月は駅伝選考にとって重要な時期。1回の練習でもミスをしたら、メンバーに入れない。そんな雰囲気だった。
その中でも、私は必死に食らいつき自らメンバーを勝ち取った。小学生からの目標だった箱根駅伝を走れると決まった瞬間は、心の底から嬉しかった。そして走れなかったチームメート、先輩の分まで頑張ろうと思った。高校時代にやめずに良かった、背中を押してくれた人たちに感謝の走りをしたいと思った。
夢の舞台は「最高」の20.8km
レース当日。6区・芦ノ湖のスタート付近は人がすごくて、これが箱根駅伝かとびっくりした。スタートが近づくにつれて走れる嬉しさよりも、緊張のほうが強くなっていった。走り始めてからも応援がすごく、全く知らない人が「日大頑張れ!」「宮﨑頑張れ!」と応援してくれた。
正直、最初から全力に近くて、走ってて楽しいとは思えず全部辛い。最高スピードでは1km2分30秒を切り、走りきった後は1週間ぐらい筋肉痛で走れない。6区はそんな過酷な区間だけど、未知のスピードを体感できるのは面白く、最高の20.8kmだった。結果は区間16位と私の実力から言えば充分力を発揮できたが、周りとのレベルの差を見せつけられ悔しかった。しかし小学生のときからずっと目標にしていた箱根駅伝を走ることができ、諦めずやってきて良かったと思える最高の1日だった。
6区でリベンジ達成、たくさんの人から注目されて
走り終わって、翌年も6区でリベンジをすると誓った。しかし山下りの影響から腰をけがしてしまい、5カ月近く走れなかった。箱根を走ったランナーの面影はなくなっていた。
走れない時期が続き、陸上に対してのモチベーションも薄れてしまった時期が続いた。そんなとき転機となったのは、小さい時から応援してくださっていた大切な方々の死だった。さらに走れない時期でも武者監督が「お前なら今年はもっとやれるぞ!」と背中を押してくださった。夏合宿では全く走れず迷惑をたくさんかけたが、見捨てずいつも気にかけてくれた。応援してくれる家族や仲間、背中を押してくれた監督に結果で恩返しがしたい、という思いが強くなった。
秋以降はそれまでとは見違えるように成長し、5000mで23秒、ハーフマラソンで2分近く自己ベストを更新できた。平地での成長もあり、箱根駅伝では、山下りのダークホースになるぞ!と誓っていた。そして、3年次もメンバーを勝ち取れた。
レース前は「自分が流れを変えなきゃいけない」と前年とは違った意味で緊張していた。無事にスタートラインに立ったときには、ワクワクする気持ちで、緊張はなかった。一斉スタートだっため、何人か速い選手もいて、一緒に前を追っていくぞと気楽な気持ちで臨めた。走り始めてからは思ったより体が動いていて、余裕があったため、オーバーペースになってしまった。
時計を見ながら走っていたため、区間記録ペースを超えていたことに驚いていた。沿道の人が「宮﨑すごいぞ! 57分台行けるぞ!」と応援してくれていた。とてもきつかったが、たくさんの応援が力となり、楽しかった。結果的に最後の3kmで失速してしまい、58分21秒で区間4位。前年から大幅に区間順位を上げ、リベンジを達成できた。たくさんの人が注目してくれていて、家族や友人たちは「すごかったね! あそこまで走れるとは思わなかったよ!」とみんなびっくりしていた。声をかけてくれる人が増え、就職活動では面接官の方にも「箱根駅伝すごかったね!」と言ってもらえて、注目度の高さを感じた。
何もできず終わった悔しい1年、でもやりきれた
最終学年はチームの中心選手として活躍するぞ、とやる気に満ちあふれていた。しかし、新型コロナウイルスの影響もあり、前半シーズンは大会がほとんど中止。3月下旬からはチームも解散期間になり、帰省し各々の練習に任されていた中でまたけがをしてしまい、先の見えない状態だった。また3年間お世話になった武者監督が6月に交代し、新体制での活動が始まった。
就職活動もコロナ禍の中ですることになった。大学に入るときから、将来は実家の家業である農家を大きくしたい!地元に戻って銚子市を盛り上げたい!と決めていた。目標から逆算し、若い時期にどんな経験やスキルを伸ばさなければいけないのかを考えて企業を受けた。いくつかの企業から内定をいただいたが、最終的に1番将来のWillを大事にして、そのために何をしなければいけないのか?を応援してくださる「サムライト株式会社」に入社を決めた。
就職が決まってからは気持ちを切り替え、最後の箱根駅伝に向け頑張ろうと思ったが、結局けがは治らず、まったくレースに出られないまま1年が終わってしまった。チームとしても箱根駅伝本戦に出場できなかった。なにより応援してくださった方に、走りを見せることすらできなかった。結果的に、4年生の1年は大学で一番辛く悔しい期間になってしまった。だが10年間の競技人生を振り返って、後悔はない。辛いことが多かったが、それ以上に箱根駅伝を追いかけた10年間は面白く楽しかった。それほど、自信を持ってやりきることができたと思う。
新しい挑戦を始めて思うこと
11月の全日本大学駅伝後に4年生は引退となった。けがを治して最後の記録会に向けて練習を継続する選択肢もあったが、いち早く次のステージに向け頑張りたいと思い、引退した2日後から内定先のサムライト株式会社にインターン生として入社した。初歩的なビジネスマナーを学び、現在は週3~4日先輩に同行しながら、営業活動に励んでいる。業務に当たる上で、駅伝をやってきたからこそ結果に貪欲になり「何をしなければいけないのか?」と考えられていると感じている。
陸上にコミットしてきた10年間は、私にとって財産となり、本当にやってきて良かったなと思う。しかし同時に、もっと陸上以外の視野も広げるべきだったなとも感じている。全員が実業団に進めるわけではないし、実業団に進めたとしても引退後のセカンドキャリアを考えた際に、何をしたいのか考えることは必要となる。現在就職活動をしている人は、改めて将来何がしたいのか?をしっかり考えてみてほしい。
諦めず、自信を持ってやり続けてほしい
私は大学4年間だけを振り返ると箱根駅伝に2度出場できたし、本当に恵まれているのかもしれない。だが過去を振り返ると、小学生の時から活躍し、高校では早熟選手として悩んだ時期、夢が叶わないと諦めて腐ってしまいそうな時期が何度もあった。しかしそんな時に周りの支えがあったからこそ、陸上から逃げずに取り組めたと思う。
「夢を諦めない・自分で限界を決めない、自信を持ち続ける」。この3つは私が常に言われてきた言葉だ。しかし実践するのは大変なことだ。そんなときこそ原点に立ち返り、競技を始めたときの純粋な気持ちや、目標を思い出して競技を楽しんでほしい。それでも辛いときは、家族・仲間、先生や監督ら、多くの人に頼ってほしい。どんな競技や小さい目標でさえも、少しでも意欲や未練が残るのならチャレンジしてほしいし、最後まで後悔なくやりきってほしい。自分がやりきったからこそそう思う。
4月からは社会人となり、競技としての陸上は完全に引退となる。だが3つの言葉を胸に、新たなステージでこれからも走り続けていきたい。
宮﨑佑喜