青山学院大「11番目の選手」新号健志 たくさんの経験と少しの後悔の先にあるもの
青山学院大学陸上部の新号健志(4年、秋田中央)は2年連続で箱根駅伝の補欠となり、「11番目の選手」と呼ばれた。大舞台を志し青学に入った彼の4年間はどんな時間だったのか。卒業を機にこれまでを振り返ってもらった。
小さい頃から箱根駅伝が身近にあった
秋田県に生まれた新号。お父さんの和政さんは東海大学で箱根駅伝に4回出場したランナーで、東海大の両角速監督とはチームメート、青学の原晋監督とは全国高校駅伝の舞台で戦った縁がある。小さい頃からテレビで箱根駅伝を見たり、昔の父が走っている映像を見たりと、新号にとって箱根駅伝は身近な存在だった。小学生の頃から誘われて市民マラソンを走ったりはしていたが、中学校に入って自主的に「陸上をやろう」と思い、陸上部に入部した。
陸上を始めてみての印象は「思ったよりキツいな」。最初は正式な選手ではなく、「奨励」という準部員扱いのような形で走っていた。同期4人のうち、いつも3番か4番目。悔しいし、このままじゃいけない。父に相談すると、「朝早起きして走ってみたらいいんじゃない?」とアドバイスをもらった。新号少年は必死に練習し、「奨励」から「選手」となり、中学2年では支部で、3年では県で入賞できるようになるまでになっていた。このまま高校でも陸上を続けて、大学に入れば、どこかのチームでは箱根駅伝を走れるかも……そんな漠然とした思いはその頃からあった。
競技も勉強も頑張りたいと秋田中央高校へ
秋田県の高校男子では、秋田工業高校が全国高校駅伝(都大路)の常連校のようになっている。だが新号は、父と同じ秋田中央高校を選んだ。「秋田工のほうが陸上は強いんですが、勉強も頑張りたいなという気持ちがあって。秋田中央なら勉強も、競技もバランスよく取り組めるかなと思って進学を決めました」。進学してみると、中学の時に知り合った速い先輩もいた。同期には国士舘大学で今年副将を務めた杉本日向もいて、日々切磋琢磨しながら楽しんで陸上に取り組めた。「歴代のキャプテンの方が明るい雰囲気を作ってくださっていて。すごくいい環境のチームで3年間できました」
チームとしての目標は都大路出場。1年生の冬からエースとして期待され、レギュラーとして県駅伝を走ったが、奮わなかった。このころ新号は、練習はできているのに大会ではタイムを出すことができず苦しんでいた。先生や両親に相談し、いろいろと調べてみると貧血だということがわかった。「それまで、がむしゃらに自主練したりしてれば強くなれるだろう、って思ってたんですけど、体のことや食べるものなんかにももっと気をつけなきゃいけないんだと気づきました」。3年目になってからは貧血も克服し、本来の走りを取り戻した。
新号はまだ全国の舞台を踏んだことがなかった。3年目こそはインターハイに出場したいと東北インターハイ5000mに出場、決勝へ。ここで自己ベストの14分36秒76で走ったが8位となり、全国への切符を逃した。ちなみにこの時優勝したのは学法石川の遠藤日向(現・住友電工)で14分02分19秒。「ラスト200mぐらいで、彼がガッツポーズしてゴールしてるのが見えました」と苦笑する。新号の1つ前、14分28秒47で7位に入ったのは当時青森山田の1年生だった田澤廉(現・駒澤大学2年)。「自己ベスト出してるのに10秒ぐらい負けてるって思いました。当時からめちゃくちゃ強かったですね」
青学の新しい取り組みに惹かれて
大学でも陸上を続けたい。そんな新号が気になっていたのは青山学院大学だった。「テレビを見ていても、今まで見たことのないトレーニングをやっていて、すごく興味が沸きました」。新しいことを次々に取り入れて、しかも箱根で勝っていく様子はとても魅力的に見えた。瀧川大地コーチ(現・東海大学中距離駅伝コーチ)が秋田まで来てくれ、新号の練習を見てくれた。「親身になって、将来の展望なども聞いていただきました。勉強もしっかりやっていきたいと伝えると、『いい環境が整っているよ』とも言っていただき、青学に行きたいとますます思うようになりました」
他にも何校からか声がかかり、両親にも相談。父は東海大出身だが、「健志が自分で考えて選んだ道だから、それでいいんじゃないか。やりたいことに従うんだったら、全力で応援するよ」と言ってくれた。そしてスポーツ推薦で青学への進学が決まった。
同期となるのは、中学の時から活躍していた神林勇太(九州学院)や吉田圭太(世羅)など全国トップレベルの選手もいた。「最高が東北インターハイ8位の自分がやれるのかな?」という不安もありつつも、地元を離れ2017年の春、青山学院大学に入学した。
シビアな環境、「速くなる」ために考えて
入学しての第一印象は「思った以上にキツい」だ。全員が寮に入り、徹底した生活リズムの管理。かつ自分でやれることをプラスでやる。すべての選手が「速くなるために」来ている、シビアな環境だった。授業では国際政治経済学部に在籍し、経済学や貿易論を学んだ。原晋監督は「勉強もしっかりしてこそ大学で走る意味がある」と常々選手には伝えており、大学の先生も勉強と競技の両立を応援してくれた。「陸上が大変だからだといって、授業で手を抜いてはだめだなと思いました。しっかりやろう、という気持ちにもなりました」
新号が入学した時の青学は箱根駅伝で3連覇し、大学陸上界において強豪チームとしての地位を確固たるものにしていた。4年生には田村和希(現・住友電工)、下田裕太(現・GMOアスリーツ)など力のある選手がいた。吉永竜聖キャプテンは、ビシッとチームをまとめている姿が印象的だった。「3つしか年齢が違わないのに、こんなに人間力って違うんだな、と思いました。4年生の覚悟みたいなのも伝わりましたし、実際に走っている姿は本当にかっこいい! 1年目は手伝いでしたが箱根駅伝に関われたし、チームも優勝できて、本当によかったなと思いました」
だが、個人としては物足りない1年だった。東北インターハイのときに出した5000mの自己ベストを10秒縮め、14分24秒で走ったが、「それだけでした」。それ以降、14分30秒前後でタイムが落ち着いてしまった。「マネージャー候補じゃない?」と言われたこともあった。
「頑張っているつもり」になるのをやめる
青学では、各学年から1~2人必ずマネージャーを出すことになっている。2年生になった頃から徐々に絞られ、冬になったぐらいにだいたい誰がマネージャーに転向するかを決める。新号は焦っていた。2年生になってからもタイムは伸びず、走っている、頑張っているのに結果に結びつかない。マネージャーにはなりたくない、選手として走っていたい。その気持ちが先に立った。
そんな時に先輩と話していて、「自信につながる結果が出るまで、地道にやっていくしかないんじゃない?」という言葉をかけられた。その時にハッとした。今まで「頑張っているつもり」になっていなかったか。うまくがむしゃらにやりつつ、合わせるべきところにしっかり合わせていかないといけない。周りをしっかり見て、何をすべきかをもう一度考え直した。
青学の練習は、集団練習が週のうち3回。その他の日は各自ペース走や距離走などに取り組む。「頑張っている人はそこで距離を踏んだり、集団練習よりペースを上げて走ったりしていました。差がつくのはそこだなと」。箱根駅伝で山の区間を狙っている選手なら、休みの日でもトレーナーのもとを訪れ、そこに向けたトレーニングをする選手もいた。
「自分の中で時間をどう使えるか。何でもかんでも上から下へ言うのは簡単だけど、それでは自主性が身につかない、指導者と相談しながら考えてやってこそ、社会に出てからもやっていける、と原監督はおっしゃっていました」。逆を言うと考えられない選手には厳しい環境でもある。
2年生の夏、徹底的に追い込みレベルアップ
徐々に調子を上げてきた新号だったが、夏合宿の前には脱水気味になることが多く、走れない時期もあった。夏合宿は選抜組とそれ以外に分かれるが、新号は選抜組に入れなかった。「これはいよいよまずいと思いました。秋のレースで走れないと、マネージャーだなと」。そこから、誰よりも走ろうと決めた。集団でのジョグから戻ってきてプラス20分、30分。苦手としていたアップダウンのコースを避けずに走ったり、1日40~50km走り込むこともあった。とにかく個人でできる範囲で追い込めるところは、徹底的に。秋には、その成果がついに現れた。5000m14分20秒の壁を突破し、箱根駅伝に向けての選抜合宿にも選ばれた。
結局この年は箱根駅伝のメンバーに選ばれることはなかった。だが、箱根1週間前、青学が「箱根0区」と呼んでいる10000mの学内タイムトライアルで、学内トップを取った。「そこで監督からも褒めてもらって、1歩抜け出したという感じでした。周りからも『新号はマネージャーはないな』と認めてもらった感じでした」。その快走がきっかけで、初めて新号はスポーツ報知の記事にも取り上げられてもらい、駅伝ファンにも知られる存在になった。
「今考えると、自分は目立ちたがり屋だったのかもしれません」とはにかむ新号。「もっと頑張ってもう1回取り上げられたいとか、褒めてもらいたいとか、もっともっと、と思えるようになりました」。春先にも自己ベストを更新し、常にチーム内でも上位に走れるようになってきた。
充実の3年生、箱根メンバーに選ばれるも……
3年生になると、神林と吉田が陸上部では初めて、授業の一環でニュージーランドへ留学した。「残ったメンバーで盛り上げていかないと、彼らがいないのはある意味チャンスなので、学年全体で頑張っていこう、という話をしました」。原監督からも「岩見(秀哉)、松葉(慶太)、新号、頑張ってくれ」と名指しで声をかけられ、特に期待を感じた。
年間通して練習をしっかりと継続でき、11月の世田谷ハーフマラソンでは1時間3分38秒で自己ベストを更新し、3位。大学に入ってから初めて表彰台にのぼった。夏合宿から積み上げてきたことをすべて出しきることができ、「120%の走りだった」と振り返る。
11月の全日本大学駅伝の直後にあるこの大会には、例年青学のメンバーが大挙して出場する。ここで好成績を残した選手は箱根を走れるというジンクスがあり、新号の中でも期待が高まった。そしてついに、16人のエントリーメンバーに選ばれた。
スタミナに自信があり、長い距離を得意とする新号は、10区を希望していた。「風が強くても、淡々と単独走でも走れると思いました」。10区の候補は新号と、湯原慶吾(当時2年、水戸工)。選ばれたのは湯原だった。スタミナは同じぐらいのレベルだが、ラストスパートのキレは湯原のほうが上だと評価された。他大学と競り合いになった時に、湯原のほうがより有利になる。その理由からだった。
「ショックでした。そこまですごく調子が良くて、仕上がってる感じもありました。ずっと上り調子で来ていて、この勢いのままいきたいなって感じてたので……悔しかったですね」。当日、新号は10区湯原の付き添いだった。当日になっても、走れない悔しさはもちろんあった。だが9区を走った神林を迎えたときに、出し切った彼を見て「改めてかっこいいな」と思った。
「俺もこんな感じに頑張りたい、かっこいい姿を見せたい! って思って、切り替えて頑張ろう、って思えました。チームは4区でトップに立つと、そのまま首位を守り通して2年ぶりの優勝。「チーム全体の雰囲気が明るくなりました。1つ上の代の先輩方が苦労していたのを見ていたし、すごくお世話になったので、実力も上がってきていたしメンバーとして貢献したいという気持ちがありました。それができなかったのは、やっぱり残念でした」
先の見えない状況、全員で励ましあって
ラストイヤーこそ。悔しさを抱えながらも切り替えて始まった2020年だったが、新型コロナウイルスの影響が世界中を覆った。「残念のひとこと」と新号。3月の東京マラソンには、準エリートとして出場する予定だったが、エリートの部のみでの開催となってしまった。ハーフマラソンのレースも、記録会も、5月の関東インカレも中止になった。
青学は全員が寮にとどまり、キャプテンの神林をはじめとした4年生全員が中心となって、モチベーションを切らさないようにとチームを鼓舞し続けた。「今できることをやろう」。とはいえ、目標となる大会がない中で練習を継続するのは、思った以上に辛いことだった。「練習はしてるのにそれを形に出す機会がなくて、メンタル的にもキツかったです。試合があればそれに合わせて練習も変化していきますが、目印となるゴールがない状態でずっと同じ練習の繰り返し。かなり苦しいなと思ったこともありました」
そんな中でも新号の状態はかなり良かった。3年生までは練習で前に出ることはなかったが、4年生になってからは先頭で引っ張る機会も増えた。練習も常に上のチームでやるようになり、自分でもレベルアップしているという手応えを感じていた。
11月2日、全日本大学駅伝の前日にあった国士舘大学記録会では、29分04秒69のタイムをマークし、10000mの自己ベストを更新。だが「学内順位はあまり良くなくて、嬉しさより悔しさが大きかったです」という。続く23日の10000m記録挑戦競技会では、29分32秒13で組9位に終わった。その直前まで合宿があり、ベストコンディションとはいえない中での出場で、強さが問われるレースだった。「もしかしたらこれが大学ラストレースじゃないか、と思ったら、悔しかったです」
だがラストイヤーも箱根駅伝の16人のエントリーメンバーに入った。箱根駅伝を特集する雑誌でも、青学の「主力選手」として紹介され、陸上ファンからも「今年こそ新号が走るのでは」と期待されていた。
「本当に終わっちゃったな」初めて涙
箱根駅伝の1週間ほど前に、キャプテン神林の疲労骨折がチーム全員に明かされた。そして「明日レースがあったとすれば、この選手が走る」とメンバーが示された。10区のところにあったのは新号ではなく、中倉啓敦(2年、愛知学院愛知)の名前。やはり、ラストのスピードが課題とされた。だが、当日までなにがあるかわからない。新号は悔しい気持ちを押し殺しつつ、当日まで緊張感を持って淡々と準備し続けた。ここでいじけたり、「どうしてなんだ」という気持ちを表に出しても、チームのためにならないと思ったからだ。
最終的に、本当に走れないと決まったのは、1月2日の往路が終わったあと、「明日の復路はこのメンバーで行く」と示されたときだ。「ああ、本当に終わっちゃったな、って思いました。これで箱根駅伝を走る機会がなくなっちゃったんだなって。応援してくれてる両親に、やっぱり走れないって連絡しました。その時、陸上をやっていて初めて泣きました」
神林を欠き、流れに乗れなかったチームは往路12位。だが復路では意地を見せ復路優勝、最終的に総合4位でフィニッシュした。3日の夜、寮であったおつかれさま会で、原監督から提案された。結果的に箱根を走れなかったけど、アスリートの体として仕上がっているのは今しかない。それを表現する機会として、最後に走ってみないか?
最後の最後に出し切れた
青学では新チーム始動の際に学内で記録会を行う。例年は4年生は参加することはないが、新号は「もししっかり終われたら、来年の『11人目』、悔しい思いをした選手にも示せるんじゃないかと思って」。同期の市川唯人(4年、伊賀白鳳)とともに参加することにした。
トラック12周半、5000mを走るあいだ、神林をはじめ同期が声を張って応援してくれた。大学に入ってからはレースはいつも緊張感漂うもので、楽しいと思ったことはほとんどなかった。「久々に、走ってて楽しいな!って思えました。もっと頑張ろう!!って思えました。ゴールの瞬間も久しぶりに出し切って、笑顔でガッツポーズしながら終われました」。走り終わってから動けないほど追い込めた。
「本当に、あの舞台があって良かったなって思います。どこかで出し切って終わりたいなという気持ちがあったので」。こうして新号の4年間は幕を閉じた。
たくさんの得たものと、後悔を胸に
4年間振り返ってみて、改めてどんな時間でしたか。新号の答えは「かけがえのない時間」だ。「先輩、後輩、同期に恵まれて、すごく濃密な4年間でした。箱根は走れなかったけど、陸上を通してテレビや記事に出たり、普通の人が経験できないような4年間を過ごせました。社会に出てからやっていく力も磨かれたと思います。就活を通しても、青学のことを応援してくれる方にもたくさん出会いました。すごくありがたいと思っています」
その一方で新号は後悔も口にする。「今回の箱根でも、4年生は竹石(尚人、鶴崎工)さんを含めて3人しか走れませんでした。走った選手ばかりに負担をかけてしまったなと。『自分が走って優勝に導く』と言えたら良かったんですができなかったし、自分たちの代で優勝できなかったのは残念だなと。下級生たちが来年こそは優勝してくれると祈っています。優勝したら完全にこの後悔もなくなるのかなって思います」
卒業後は不動産ディベロッパーで、営業マンとして働く。原監督からは「俺みたいに日本一の営業マンを目指して頑張れ」と励ましの言葉をもらった。勉強にもしっかり取り組む新号らしく、在学中に宅建に合格した。寮母の美穂さんには「陸上部で宅建を取った学生は記憶にない」と言われた。「コツコツ勉強していったら取れました。そういう意味では青学陸上部の歴史に名を刻めたかな」と笑顔を見せる。
「間違いなく、大学4年間が人生のピークだったと思うんですけど」と少しドキリとさせることを言いつつも「人生のピークがここで終わりっていうのはやっぱり嫌なので、社会人になってから今度は青学とは違う舞台で頑張っていきたいなと思っています」と次のステージでの活躍を誓う新号。4年間の経験を糧に、新たな一歩を踏み出す時はもうすぐだ。