陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2021

日体大・志村美希 卜部蘭にあこがれ進んだ我が道、日本選手権決勝で泣いて笑って

志村は陸上人生の最後と決め、日体大での4年間を走り抜いた(撮影・北川直樹)

「最後の1年で改めて私は陸上競技が好きなんだなと気づけました。自分に可能性も感じられたし、未練もあるんですけど、そう思えている内に引退した方がいいのかなとは思っています」。日本体育大学の志村美希(4年、白梅学園)はラストイヤーに800mで日本インカレと日本選手権でともに決勝進出を果たし、記録もまだ伸びていた。それでも大学進学前に決意した通り、今シーズンで陸上を引退した。

「絶対に白梅にいく、いくしかない!」

小さい頃から走ることが大好きだった志村は、小学校の休み時間や放課後には友だちと走って遊んでいたという。小1の時から水泳を習っていたが、「絶対、陸上部に入るんだ!」という思いとともに中学校へ進学。陸上部では最初は短距離だったが、顧問に「800mが向いていると思うよ」と言われ、すぐに中距離に転向。「ただ走るのが好きだったので、特に種目にはこだわりもなかったです」と当時を振り返る。部活が終わった後も足りないと感じた時は、帰宅後にひとりで走っていた。

走ることが楽しいという気持ちは、次第に強くなりたいという気持ちに変わっていく。中2の時に急に記録が伸び、東京都大会で準優勝。中3でこそは全国大会に出たいと思い練習を継続したが、関東大会にも進めなかった。

高校は白梅学園高校(東京)へ。卜部(うらべ)蘭(現・積水化学)にあこがれてのことだった。卜部は中学時代から全国の舞台で活躍し、白梅学園時代には日本ジュニアで800mを制している。志村は中学生の時に卜部のレース動画を見て、「こんな強くて速い選手が東京にいるんだ」と夢中になった。その卜部が通っていた白梅学園は家からも近かった。「これはもう運命だ。絶対に白梅にいく、いくしかない!」と決意。しかし弟と妹がいるため、金銭的な理由で親から「絶対都立」と言われていた。

卜部(89番)は2019年の日本選手権で800mと1500mで2冠を達成している(撮影・藤井みさ)

諦めきれなかった志村は白梅学園のオープンキャンパスに行き、陸上部の練習にも参加させてもらった。初めて卜部と練習した日のことは今でも覚えている。「もうアップがタイムトライアル並みにめちゃくちゃきつかったんです。でもこれで垂れてしまったら顧問に『白梅には向いてない』と言われてしまうんじゃないかと思って、一生懸命走りました」。なんとか練習についていった志村は、改めて白梅学園にいきたいという旨を白梅学園の顧問だった遠藤道男先生に伝えた。「だったら先生が親を説得するよ」と言ってもらえ、遠藤先生の「絶対インターハイに連れていく」という後押しもあり、志村は晴れて白梅学園に進んだ。

高3でインターハイ出場、ここで引退するつもりだった

白梅学園に入学する頃には入れ違いで卜部は卒業し、東京学芸大学に進んでいたが、卒業後も卜部は白梅学園で練習をしていた。あこがれの高校で練習ができる日々。しかし先輩も同期も全国レベルの人ばかりで、不安は大きかった。2つある部室は実力によって分けられ、志村は当初、下位の部室に振り分けられた。「それが私の中で悔しくて、絶対上がってやる、雑草魂で3年間頑張ってインターハイにいくんだって思っていました」

白梅学園の練習は400m×10本、800m×10本、1000m×5本など、量をこなす練習が多い。負けず嫌いの志村は先輩たちに食らいついて走る内に練習量にも慣れていき、そうした練習スタイルが自分に合っているように感じた。

高3になり、やっと目指していた全国の舞台・インターハイへの出場をつかみ、予選のプラスで拾われ準決勝に進んだ。同じ組には1年生の時にインターハイを制した同学年の髙橋ひな(西脇工→早稲田)がいた。ラスト200mまで志村は髙橋の後ろについていたが、最後は離されてしまい、そのまま3位でゴール。決勝には進めなかった。目指していた舞台に立てた喜びがあった一方で、上には上がいること、自分は出場だけで満足してしまっていたことを痛感した。また、全国の舞台で活躍する選手がとてもまぶしく、楽しそうに競技と向き合っている姿が強く印象に残った。

志村は当初、高校で陸上をやめるつもりだった。しかしインターハイが終わってしばらくしてから、続行を決めた。高校時代、志村は800mとともに4×400mリレーにも取り組んでいた。当時のメンバーは絶対にインターハイにいくと心に決め、互いに高め合ってきた。しかしインターハイに続くひとつ前の南関東大会で終わった。「マイルもインターハイ決勝常連だったのに、私たちの代で途絶えてしまいました。先生方にもOGの方々にも申し訳なくて、その償いではないですけど、大学でも続けてもっと強くなりたいと思いました。普通の女子大生にはなりたくなという気持ちもあったんです。800mというしんどい競技をやってきて、急に楽な道に進んでいいのかなって」。4×400mリレーでインターハイに出場できていたら、陸上は高校でやめていただろうと振り返る。

白梅学園の遠藤先生の縁と、2015年の日本選手権800mで2位になった北村夢(現・エディオン)が部にいたこともあり、志村は日体大に進むことを決めた。高校生の時から早々に大学の練習に参加。最後の4年間で「日本インカレ入賞、日本選手権出場」を目指し、また陸上と向き合う人生を歩み始めた。

慣れない練習に「これじゃ絶対強くならないです」

大学でも実家暮らしを続け、片道1時間半かけて大学に通った。家族も自分のレースに合わせて食事を作ってくれたり、生活のリズムも整えてくれたりと協力してくれたが、大学の練習には不安が募った。日体大は本数は少なくてもレースペースに近い練習が中心で、量をこなす練習をしていた高校時代とは真反対とも言えるものだった。

日体大に進学し、最初の1~2年は慣れない練習に不安が募った(左から2人目が志村、撮影・北川直樹)

進学して間もない春、帰り道の途中で白梅学園の下平芳弘先生(志村が卒業したタイミングで顧問に就任)に電話で相談した。「これじゃ絶対強くならないです」と涙ながら不安な気持ちを伝えた。すると下平先生は「自分の走りや動き方を忘れたらいつでも戻ってきていいよ。でもそれは動きを確かめる程度で、高校の慣れた練習しかやらないのは違うんじゃないかな」と優しく諭してくれたという。自分に帰る場所があることに安心できた反面、甘えたら駄目だと感じた。結局、白梅学園に帰ることはしなかったが、あの時の先生の言葉があったからこそ、前を向くことができた。

日体大の先輩にも相談しながら目の前の練習を一つひとつこなし、練習を継続。それでも思うようなタイムが出ず、その度に不安を感じていた。そんな中、2年生の9月にあった関東新人で2分09秒89をマーク。インターハイ以来となる2年ぶりの自己ベストで、優勝をつかんだ。決勝には日体大から5人の選手が出走し、内2人は後輩だった。「後輩には絶対負けたらいけない」という思いでラストスパートを決め、日体大は志村を先頭に4位まで独占。表彰式では日体大陸上部の石井隆士部長から賞状を受け取り、「お前が日体大中距離を引っ張れ」と握手を交わした。「頑張らないとって思えて、一気に火がつきました」と志村は言い、このレースがターニングポイントになった。

3年生の時には目指していたインカレの舞台に立った。高校時代にもインターハイで全国大会を経験してはいたが、インカレにはまた違った空気があった。「集団応援の華やかさというかにぎやかさが本当にすごかったんです。私はあまり緊張しないタイプなんですけど、体中からアドレナリンが出ているような感じで、こんな舞台で走れるなんてすごいなって改めて思いました」。観客の注目を一身に集めて走る。そんな特別な舞台を志村は「ご褒美」のように感じていた。苦しい練習の先に待っている特別な場所、夢の舞台だと。

その初めてのインカレは準決勝敗退。「あっという間に終わったという感じで、ただ走ることで精いっぱいでした」。だからこそ最後のインカレでは決勝の舞台に立ちたいという思いを強くした。その10月に日体大記録会で2分08秒53をマークし、日本選手権A標準を突破。悔いのない1年にしたい。そう思い、最後の冬季練習に向かった。

コロナで自主練習、朝5時半から坂ダッシュ

しかしラストイヤーは新型コロナウイルスの影響を大きく受けた。昨年4月8日の緊急事態宣言の前には大学にも入れなくなり、寮生には帰省した選手もいた。それぞれ環境が異なることもあり、練習メニューは提示されなかった。与えられた厳しいメニューで練習をしてきた志村は、自分ひとりで練習をする難しさを痛感させられた。

春に予定されていた関東インカレと日本選手権が延期になり、練習もできず、先行きも見えない。「なんのために陸上をやっているんだろう」と気持ちが塞いでしまった。例年、中距離の4年生は春の関東インカレで引退する選手が多い。その大会が延期になり、いつ開催できるのか見えなかったため、春をもって同期の多くは引退し、競技を続けた中距離の4年生はたった2人だった。近所の住宅街でジョグを始めたが、家に帰っては部屋の電気もつけずにボーっと虚空を見つめた。「なんでこんなことをしているんだろう」。そんな言葉が何度も胸に浮かんだ。

きっかけはSNSだった。競技を問わず多くのアスリートがエールを送っているのを見て、志村も少しずつ前を向けるようになった。どうにもならないことを悔やんでも、自分に残された競技時間はもうわずかしかない。後悔しないように、今できることをやろう。気持ちを切り替え、今の環境でできることを考えた。ジョギング中に見つけた坂での坂ダッシュにも取り組んだ。しかしマスクをしたままでは練習にならない。だったらと朝5時に起き、人がいない5時半から全力で坂を走った。「元々朝は得意だったので。でも朝5時半から坂ダッシュするような女子大生はモテないですよね」と志村は笑う。

最後の夏合宿、仲間と走る楽しさを改めて知った(前列中央が志村、写真は本人提供)

日体大の練習が再開されたのは8月になってから。久しぶりに仲間の顔を見て、部活に行くのが楽しみになった。学内で数日練習した後、北海道での夏合宿へ。もうひとりの同期は教育実習中だったため一緒に合宿にはいけなかったが、後輩が自分のことを気にかけてくれ、仲間の優しさがうれしかった。

インカレ決勝、雨の中でも冷静に

9月、最後の日本インカレに臨んだ。その1カ月後には同じ新潟のデンカビッグスワンスタジアムで日本選手権が開催される。「大きな会場だな」と圧倒された。

志村は予選で3着となり、プラスで拾われ、人生初の全国大会決勝に進んだ。800mには日体大から志村と岩山佳央(1年、富士市立)と吉田詩央(1年、埼玉栄)の3人が出走し、2人は志村の決勝進出を涙を流して喜んでくれた。そんな後輩の思いに触れ、志村も涙を我慢できなくなったという。

日本インカレ800m予選、志村(275番)は3着で決勝に進んだ(撮影・藤井みさ)

翌日の決勝前、会場は激しい雨に見舞われた。流しをして位置につく。選手紹介の間も強い雨が降り、一度スタートしたレースは急きょ、仕切り直しになった。大雨で体は冷え、高めた気持ちも調子を狂わされた。しかし志村は逆にチャンスだと思ったという。「私は元々そんなに緊張する方ではないし、みんながテンションが下がっている時こそ燃えるようなところがあるんですよね」

雨が弱まり、再びスタートへ。レースは東大阪大学の川田朱夏(3年、東大阪大敬愛)と立命館大学の塩見綾乃(3年、京都文教)が牽引(けんいん)し、志村は最後の最後にひとり抜いて5位入賞。記録は2分11秒57だった。ひとりで練習をしている時は「こんな練習で強くなるのか」と不安を感じていた。思うような記録は出せなかったが、目指していた舞台で力を発揮できたことで、やってきたことは無駄じゃなかったと実感できた。

あこがれの卜部先輩との日本選手権決勝

翌10月、日本選手権のために再び新潟を訪れた。すれ違う選手はみな、名の知れた選手ばかり。「周りの選手のアップを見られて、レースも走らせてもらえるなんて。なんだか観光客のような気分で、悪目立ちしないように終わりたいという気持ちでした(笑)」と、同じ舞台に自分が立てることが夢のように感じていた。志村にとってこの日本選手権は、間違いなく最大の「ご褒美」だっただろう。

日本選手権予選前、あこがれてきた舞台で走れる喜びをかみしめた(写真は本人提供)

予選で志村は川田と同じ組になった。「川田さんのスピードに自分はついていけない」と感じていた志村は、スタート直後に川田が前に出たのは「いつものこと」と感じていた。しかしその川田の背中はラスト300mでも目の前にあった。「あれ? 今自分、2番手の気がするな。美希、2着じゃない?」。そう思うと、もう負けられない。なんとしてもこの2番手を死守する覚悟でゴールを目指し、2着でフィニッシュ。2分07秒71の自己ベストで決勝進出を決めた。

翌日の決勝、同じ舞台には中学生の時からあこがれてきた卜部の姿があった。日本選手権の決勝に志村美希がいる。それを一番信じられなかったのは志村自身だった。中学生の時から漠然と思い描いてきた夢、それが「いつか卜部先輩と全国大会の決勝の舞台に立つ」ことだった。

選手紹介で志村は満面の笑みで両手を空に突き出した。夢の舞台でのレースはどうだったかとたずねると「それがその時も今も、全く覚えていないんです」と志村。持てる力を全て振り絞った。しかし9位でゴール。「全然力を抜いたとかではないんですけど、ビリになってしまって……。それでも8位かって思っていたんですけど、決勝は9人だったんですよね。入賞を逃してしまったなって後から思いました」。記録は2分11秒20だった。もっと早くから日本選手権に出られていたら違う結果になっていたかもしれない。そう思わずにはいられなかった。

レースの後、卜部の方から志村に声をかけてくれた。「白梅の後輩と一緒に走れてうれしかったよ」。その言葉で全てが報われたように感じた。志村は涙を流しながら自分が追いかけてきた夢を卜部に明かした。その時を振り返り、「本当に一生涯の夢でした。そんな舞台で卜部先輩と自分が走るなんて、夢の夢の夢の雲の上のようなことだと思っていました。中学生の時の自分に教えてあげたいです。『そんな未来があるから、頑張るんだよ』って」。志村は本当にうれしそうに話してくれた。

日本選手権の後に卜部(右)と撮った宝物の一枚(写真は本人提供)

最後のレースを見た母からのメッセージ

日本選手権の後もシーズン最後まで走り切ると決め、関東インカレ、木南道孝記念大会、東京陸協ミドルディスタンス(もう一つのインカレ)、そして11月1日、日体大競技会でのラストレースを迎えた。800mと400mHに出場し、最後はもうひとりのあこがれの先輩・北村夢のペースランナーを務めた。

志村が400mHを走ったのはこれが初めてだった。中学生の時から400mHにあこがれはあったが、800mの選手が400mHの練習をしているとふざけているように見えるかもしれないと思い、高校も大学でも練習をしていなかった。「レース直前のアップが練習でした」と志村は笑いながら振り返る。足が合わずに苦戦したが、最初で最後の400nHの記録は65秒70だった。

北村のペースメーカーとして、「ちゃんと役目を果たせますように」とお祈り(写真は本人提供)

最後のレースが北村のペースランナーだったのは、志村にとって幸せなことだった。卜部にあこがれて白梅学園に進み、北村がいる日体大で練習を重ねてきた。北村は日体大を卒業した後も日体大を拠点にして練習をしていたこともあり、志村にとって北村は目指すべき存在で、心許せる先輩だった。北村はこのレースで2分04秒99をマーク。レース後、北村は一緒に泣きながら笑顔で志村をねぎらってくれた。

レースには母も応援に来てくれた。志村の目には母は陸上にあまり関心がないように見えたという。陸上で悩んでいた時、「そんなにつらいんだったら、陸上はもうやめてもいいんじゃないの」と言われることもあった。しかし最後のレースが終わった後、母からは「お疲れさん。中学から始めて今まで10年間、よく頑張ったね。美希はお母さんの自慢です。本当によく頑張った! お疲れ様でした」というLINEが届いた。「今まで陸上をやらせてもらって迷惑しかかけてなかったんです。でも母が最後の最後にこんなことを言ってくれるなんて、たくさん『ごめんね』と『ありがとう』という気持ちで涙が止まらなくなりました」

日体大競技会を終え、志村(右)は北村を前にして、自然と涙があふれた(写真は本人提供)

今春からはヨガのインストラクターとして

4年生になってから志村が変えたことがある。決勝前の選手紹介だ。「神聖な場所だと思っていますから、そこでふざける人がすごく嫌いでした」。そのためいつも選手紹介では真顔で挙手し、礼をするだけだった。しかし改めて考えてみると、キラキラ輝いているトップ選手は、選手紹介の時に笑顔で応え、レースでも力強い走りを見せている。そんな姿を見て、自分もそうありたいと思うようになった。大雨のインカレでも、夢の舞台の日本選手権でも、志村は選手紹介で満面の笑みを見せてくれた。「おかげでレースでも伸び伸び走れたんだと思います」と志村は言う。

またラストイヤーは無観客試合が多く、志村自身も寂しさを感じていたが、SNSを通じての応援に励まされてきた。3年生のインカレの頃からTwitterのフォロワーが急増し、今では2万2000人以上にもなった。「ライブ中継を見てくれた方からたくさんの声をかけてもらえ、本当に本当にメッセージが力になりました」と感謝している。

日体大卒業後はヨガのインストラクターとして新しい一歩を踏み出す。陸上中心の生活を続けてきた志村は当初、自分がやりたいことが浮かばず悩んだが、これまでの経験も生かせるんじゃないかと考え、決断した。将来的にはヨガのインストラクターをしながら、ランナーと触れ合えるようなこともできたらと考えている。「私と関わってくれた全ての方のおかげで10年間走り続けることができ、また想像もできないくらいたくさんの方々にも応援していただけ、支えてもらいました。競技はやめますが今度は違う形で恩返ししていきたいです」

現役の時はレース後のご褒美として、唐揚げや生クリームなど好きなものも少し食べ、次のレースの活力にしてきた。引退した今は気にせず好きなものを食べられるようになったが、なんだか物足りない。「やっぱりレースがあってのご褒美だったなと思いました」

今はまだ、小休止。新たな夢に向け、ここからまた歩き始める。

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