大学陸上・駅伝

連載:私の4years.

「一緒に暴れたいんだ」恩師の一言で火がついた 元亜細亜大陸上部・鹿居二郎1

高校生の時の鹿居。髪は寮の廊下で自ら刈っていたため、少しガタついていた(すべて写真は本人提供)

今回の連載「私の4years.」は、今春に亜細亜大学を卒業後、サンベルクス陸上競技部で競技を続ける鹿居二郎(22)です。スタート前の「ジョジョ立ち」というスタイルを持つ一方で、学生時代には東海選手権800m優勝・大会新、関東インカレ800m3位入賞などの実績を残しています。5回連載の初回は陸上をはじめたきっかけ、恩師・佐藤信之監督との出会いについてです。

上には上がいる、だから今も現在進行形 元筑波大バスケ部・青木太一5

目立てる“かもしれない”舞台

私が陸上を始めたきっかけは、目立てる“かもしれない”舞台がそこにあったからでした。小さいころから運動神経が悪かった私に対し、父は「体力だけはつけておけよ」と言い、休みの日にはよく走りに連れていってくれました。実はインドア派の人間なので、すごく嫌でした(笑)。嫌々とはいえ、走っていたことによって周りより少しだけ走るのが得意になり、その積み重ねは私の中で小さな自信になっていたことも事実でした。

小学校の徒競走で1番に! このころからゴール時のポーズは始まっていました

中学校に上がって部活動を決める時、私は陸上を選択しました。もちろん、相変わらず運動神経が絶望的だったこともありましたが、「どうせ青春3年間かけるなら、他より輝けそうな舞台の方がいい!」と、今考えると何とも浅はかな考えではありました(笑)。きっかけはかっこいいものではなかったですが、根底にそういった「意地でも成功してやる」みたいな泥臭いマインドがあったこともあり、そのころから何をするにも全力でやるクセがつきました。おかげで今でも「暑苦しい」とか、「うるさい」といった声を周りからはいただいています。ありがたいですね。

名門で挫折、「ジロウダッシュ」から始まった

輝く! とかそんなかっこいいことを言っておきながら、中学時代の成績はどうだったのかというと……一番いいもので県大会決勝ビリ。お世辞にも輝かしいとは言えません。しかし中学3年間、本気で陸上に打ち込むうちに、私は陸上というものにすっかり魅了されていました。もっと本気で打ち込みたい。もっと上の世界を見てみたい。そんな考えが強くなり、陸上の名門である中京大中京高校(愛知)に進学することを決めました。当時の私は成績が悪かったので、一般入試で合格するのは大変でした。

いざ進学、いざ入部すると、陸上のレベルの高さに圧倒されました。先輩は県トップレベルの選手ばかり。全国で大会記録をもつような選手までいました。練習は一番下の設定タイムでやるのがやっと。はっきり言って世界が違うと思い知らされました。でも「そんな先輩達と一緒に練習がしたい」の一心で、毎回の練習に全力で臨みました。動きづくりからの戻りのジョグまで全力。先輩に「ジロウダッシュ」というあだ名をいただきました。とっても光栄でした(笑)。

そんな強豪校でもまれにもまれながらも持ち前の負けん気で走り続けた結果、3年目でやっと私はブレイクし始めました。1500mでは前年度までのベストを10秒以上縮める3分53秒、800mでも4秒縮めて1分55秒と、どちらも記録的には当時の東海地区でインターハイを目指せるようなレベルまで成長しました。

迎えた東海地区予選大会。1500m予選でそれまでの自己記録を更新し、みんなからも大きな声援を受けて決勝の舞台に立ちました。しかし予選で力を出し切ってしまい、疲労が抜けていませんでした。それでも持てる力を振り絞って食らいつきましたが、ラスト1周で大失速。ラスト200mは完全に諦めたような走りでゴール。9位でインターハイを逃しました。今でも一番見返したくないレースです。

なぜあの日、最後までベストを尽くせなかったのか。今思い返しても、応援してくれた方々やその場に立てなかったライバルなど、本当にたくさんの人に申し訳ない走りをしてしまいました。そのレースを終えて私は、陸上は高校で終わりにしようと本気で考えるくらい自信を失いました。

佐藤信之監督の熱い思いで自分の未来を信じた

しかしこの東海地区予選大会で、この先4年間の運命を変える出会いをしました。自分のレースが終わった次の日、後輩の応援をしていると監督から呼び出され、「お前に興味があるって言っている大学の監督がいる」と告げられました。その監督こそ、亜細亜大学陸上部の監督であり、大学時代の私の恩師である佐藤信之さんでした。もちろん嬉しくはありましたが、陸上はもう終わりにしようと思っていた分、ものすごく複雑な心境でもありました。

その後、しばらくは練習に身が入らない日々が続きました。思うように走れず、ただでさえ下がっていたモチベーションはさらに底辺へ。練習の質もかなり下がっていました。そんな中、佐藤監督が高校まで来て下さって話をすることになりました。佐藤監督には「他のレースも動画で見たよ」とか、「スピードを武器に箱根を目指してほしい」とか、「長い距離も走れると思う」とか、いろんな言葉で熱心に勧誘していただきました。佐藤監督には本当に申し訳ないですが、その時かけてくださったお言葉は、正直話半分で聞いていたのでよく覚えていません。この場を借りて謝罪します……。

ただ、その話が終わった時、窓の外を見て佐藤監督が「絶対面白いと思うんだよな。関東でお前と一緒に暴れたいんだよ」とつぶやいたことだけは鮮明に記憶しています。佐藤監督がどんな思いで言ったのか、私には分からないですし、ひょっとしたら外にいたサッカー部を見て、何も考えずに言った言葉だったかもしれません。

それでも当時の私には、佐藤監督は私と一緒に暴れている未来を想像しているように見えました。その時、「この人は本気なんだ。この人についていけば間違いない」と、あんなに悩んでいたのが嘘のように「亜細亜大学で陸上がしたい」と思うようになりました。

ここから私の大学陸上は始まりました。

亜細亜大学の入学式にて(後列右から3人目が鹿居)

私の4years.

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