「激しい男」と呼ばれ、初の全国で壁を知った 元亜細亜大陸上部・鹿居二郎2
今回の連載「私の4years.」は、今春に亜細亜大学を卒業後、サンベルクス陸上競技部で競技を続ける鹿居二郎(22)です。スタート前の「ジョジョ立ち」というスタイルを持つ一方で、学生時代には東海選手権800m優勝・大会新、関東インカレ800m3位入賞などと実績を残しています。5回連載の2回目は、亜細亜大1年目の成功と挫折についてです。
大学デビュー戦で自己記録を次々更新
私は入学して間もなく、先輩から「激しい男」という二つ名をいただきました。これは私が何事にも全力だったことや、いろんなことに首を突っ込む性格から命名されたものでした(笑)。そんなこんなで、大学に入ってからも全力な私のお話をさせていただきます。
私にとっての大学公式戦初レースは、5月の関東インカレでした。1年生であったのと、元々のスピードを生かそうということで、800mでのエントリーとなりました。今思えば、これが人生を変えたレースだったのかもしれません。
当時の関カレは日産スタジアムで行われていました。今まで走ったことがない上等な競技場に、360度観客がいるという環境。実績もない1年坊主にとってはこれ以上なく、緊張する舞台でした。
しかし、そんな私に自信をくれた人がいました。二つ上の先輩である服部純哉さんです。純哉さんは同種目で前年度チャンピオンになっている方で、過去にはインターハイ、国体でチャンピオンになっている私の憧れの先輩でした! そんな純哉さんが予選のレースを見て、「他の人より動けているよ! いけるいける」などとアドバイスをくれたことが、何も持っていなかった私にとって大きな自信になりました。
そんなこともあってか、初の大舞台でありながらも自分の走りができ、1本目、2本目、3本目とレースを重ねる度に自己ベストを更新。出場前の自己記録は1分53秒69でしたが、決勝では1分51秒60を記録し、1年生ながら2部3位入賞を果たしました。なかなかの快挙です(笑)。この時から800mのもつスピード感、たった2周にちりばめられる多様な戦略、そういったものに魅了されるようになっていました。
疲労骨折で選抜合宿漏れ、焦りを抱えながら体作り
そんな関カレも終わり、興奮冷めやらぬ中、私は一つの心配を抱えていました。レース前から痛みが出ていた右脛(すね)がものすっっっごく痛いのです。正直普通に歩くのもつらいくらいでした。練習を休んで病院に行くと、「完全に疲労骨折です。2カ月は安静にしてください」と告げられました。「いや、ちょっと待ってくださいよ! 2カ月も走れないんですか!? それじゃあ夏合宿に間に合わないですよ!」などと、病院の先生相手に知るはずもない私の状況を語りだすくらい感情的になっていたことを、今でも思い出します(笑)。
8月の合宿、選抜組は北海道で、それ以外は岐阜の御嶽(おんたけ)で行われます。なんとか回復して走り始めた私は選抜合宿へ! ……とはいかず、御嶽でしっかり基礎をつくろうということになりました。
この時、同期からは3人が選抜合宿に選ばれており、私はかなり焦りを感じていました。その焦りのせいで治ったばかりの右脛をまた痛めるなど、高校生の時には走らなかったような距離を走る練習に体が耐えきれず、他のところまで故障してしまうような状態でした。
初の全国大会で大惨敗
けがや不調が続く中、私にはへこんでばかりもいられない理由がありました。それは10月に行われる全日本インカレと、日本ジュニア選手権(現・U20日本選手権)の参加資格をもっていたからです。実は私にとって、初の全国デビューでした。
さらにジュニア選手権に至っては、地元・愛知での開催。後輩や知り合いも見に来ます。燃えずにはいられません! 練習はかなり追い込みましたし、最後はかなりいい状態で仕上がっていました。
かなり自信をもって挑んだ初の舞台。結果はというと、全日本インカレは1分52秒11で予選落ち、日本ジュニア選手権は1分52秒91で予選落ち。さすがにこたえました。とくにジュニアは年下の高校生もいたにも関わらず、レース展開的にも何もさせてもらえませんでした。全国の壁ってこんなに高いのか……。改めて感じさせられました。そして何より、調子がいいのにベストを出せなかったことで、大舞台で自分が実力を発揮できない人間だと気づかされたことにもへこみました。
このように、私にとっての全国デビューは「出ただけ」で終わってしまい、実感もなく、ただ「こんなものなのか」という思いだけが残りました。
一番の友でありライバルであり、高め合う存在
しかし、落ち込んでばかりもいられません。ボロボロになりながらもいじけていては駄目だと思わせてくれた存在が、私にはありました。それは、同期で唯一、1年生でありながら箱根駅伝予選会を走った田﨑聖良です。田﨑は入学時の持ちタイムこそ同期の中で速い方ではなかったものの、「自分が箱根を走るんだ」という意思を人一倍もって練習に臨んでいました。結果として、田﨑は3年生の時に関東学生連合チームで箱根駅伝6区を激走しました。
田﨑とは練習ではメニューが違ったため一緒に走ることは少なかったんですが、陸上に関しても私生活でもよく意見が合い、仲よくいつも一緒にいました。そんな田﨑と私は同時に、ライバルでもありました。少なくとも私はそう思っていました(笑)。どちらかが結果を出せば、それに刺激を受け、またどちらかが結果を出す。互いに口にはしませんでしたが、確実に「高め合う存在」でした。