陸上・駅伝

嶋野太海、日体大の主将から新コーチへ 悔しさを胸に「箱根駅伝優勝」を目指す

たくさんの声援を受けながら、嶋野は3年生の時に箱根駅伝で8区を走った(写真提供・saya)

「日体大が好き。日体大を強くするためにサポートしたい」と嶋野太海(ひろうみ、22)は熱く語る。今年4月から日本体育大学駅伝部コーチに就任。大学時代に日体大駅伝部で、主将としてチームの中心で活躍した。小学校、中学校、高校、大学時代とどの場面でも主将を経験し、リーダーシップを磨いてきた。特に大学4年間を振り返り、「一生の財産」と話す。「つらい日々が多かった」と、決して順風満帆な4年間ではない。どんな思いをもって選手として主将としてチームをまとめあげたのか。またコーチとしての目標など、話を聞いた。

日体大・池田耀平 箱根駅伝2区で日本人1位 「想定通り」に実力を発揮しきれた理由

中2の時に見た箱根優勝校の日体大へ

小学1年生から中学3年生までは野球部だったが、中学生の時に千葉・富津市の陸上大会で1500m、3000mで優勝したことで「走る楽しさ」を実感。「箱根駅伝で走る」ことを目標に掲げ、拓大紅陵高校(千葉)から陸上人生をスタートさせた。

嶋野は「輝かしい実績は残せなかった」と言うが、小中学校で野球部の主将の経験を生かし、高校でも主将としてチームを引っ張っていった。大学進学先に日体大を選んだのは、「体育の先生になりたい」という思いから。日体大は2013年、箱根駅伝で30年ぶり10回目の優勝を果たしている。「中学2年の時、箱根駅伝で優勝したチームに入れるのはうれしかった」と当時を振り返る。

嶋野にはライバルの選手がいる。池田耀平(カネボウ)だ。嶋野が高3の時に出場した浜名湖駅伝で、同じ区間を走ったのが池田だった。嶋野が同じ靴を履いていたことに池田が気づき、大学入学時にその話題で話しかけてくれ、意気投合した。1年生の5月には、好きな野球を一緒に見に行くほどの仲になった。嶋野は池田について「一番仲がよくて、でも一番勝ちたい相手で、特別な選手」と話す。

入学した時から、同期の池田(左)と競い合ってきた(写真は本人提供)

池田は1年生が一番苦しかった時期と話していたが、嶋野も苦しんだ。嶋野は5000mで14分30秒切りを目標に練習に取り組んだが、けがで年間2レースしか出られず、達成できなかった。「走れなかったことが苦しかった」と当時を振り返る。2年生になっても5000mでは高校よりも遅いタイムで、「モチベーションと結果のギャップがつらかった」と競技がうまくいかない日々だった。

箱根路を走る後輩の姿に刺激を受け

だが嶋野は、入学当時から声掛けなどを積極的にしていたことから、学年主任に抜擢(ばってき)された。「走り以外でも、何かチームに貢献したい」と1、2年生を引っ張った。「走りで活躍できない」ならとマネージャーの道も考えたが、2年生での箱根駅伝で7区計測を務めた時に、後輩の吉田光汰(現・中央学院大4年、拓大紅陵)が走っているのを目のあたりにした。嶋野は「後輩が走ったことはうれしかったけど、先に走ったことが悔しくて鮮明に覚えています」とその時のことを話す。また、日体大駅伝部は駅伝部の合宿所と、学生寮の2つに分かれている。学生寮へ降格したことによって「耀平とか同期で遊んでも、帰る場所が違うことが本当に悔しかった」と言う。

この悔しい気持ちを原動力に闘志を燃やした。「人一倍やりました。絶対に練習量は誰よりもやったと自信を持って言えます」と話す。3年生の時には誰よりも遅くまで練習し、体のケアや治療にも時間やお金をかけた。努力が実り、その年の9月には5000mで自己ベストを更新すると、10月の箱根駅伝予選会のメンバーに選出され、チーム10番目のタイムでゴール。日体大は3位で予選会を通過した。

3年生での箱根駅伝予選会では10番目のタイムで本戦出場に貢献した(前列右から3人目が嶋野、写真提供・saya)

3度目の挑戦で嶋野は箱根駅伝出場を果たし、8区を任された。「恩師や両親、友達に箱根を走ると言えて良かったし、うれしかった」と嶋野。しかし区間17位に終わり、「走れたことよりも悔しさが大きかった。実力不足です」と振り返る。日体大は17位でシード権獲得には至らなかった。

主将として迎えたラストイヤー

悔しさを胸に主将に就任。「箱根駅伝シード権獲得」という目標を掲げた。嶋野は1年生の時から自主的に毎日日誌を書いている。内容は練習メニューや感想、そして人へのありがとうの気持ち。「当たり前のことでもしっかりと感謝できる人でありたい」と嶋野は言う。主将就任時、日記には「結果は全て自分の責任。70人の目が自分に見られていると思ってキャプテンとしてふさわしい行動をしよう」と書いた。伝統ある日体大の主将になることに責任を感じ、お手本となるような選手でありたいという思いからだ。

嶋野(前列右から2人目)は主将としてチームをまとめ上げた(写真は本人提供)

主将としてスタートしたラストイヤーは、コロナ禍で全体練習ができない日が続いたが、オンラインでミーティングを開くなど、チームの一体感を高めた。7月には玉城良二監督が就任。嶋野は「競技実績や指導方法、人間性も素晴らしい人」と熱い思いを口にした。ジョグを大切にし、長い距離に対応できるチームに成長していった。夏合宿でも56日という長期間取り組み、「大学関係者や宿舎の方など多くのサポートがあるので、感謝して練習していました」と振り返る。

チームも成長し、箱根駅伝予選会では6位で73年連続となる本戦出場を決めた。だが嶋野は箱根駅伝予選会ではチーム11番目のタイム。全日本大学駅伝でも補欠に回るなど、走りで引っ張れないことに悩んでいた。その時に玉城監督から「いいキャプテンになろうとしなくていいぞ。走る以外で頑張っている姿を見ているから」と優しく声をかけてもらったという。気持ちが楽になったことで調子を取り戻し、11月の日体大記録会では10000m28分台の自己ベストをマークした。

ホームグラウンドで行われる日体大記録会で力をつけていった(写真提供・saya)

だがその3日後に腰の痛みを発症し、疲労骨折の診断を受けた。「絶対諦めない」。その言葉を胸に、治療しながら練習に取り組んだ。主将としてチームを引っ張りながら、選手としても毎日必死に努力し、駆け抜けた。それでも箱根駅伝出走メンバーには選出されなかった。「キャプテンとして出場できないのはすごく悔しかった」と振り返るが、気持ちを切り替え、主将してチームのサポートに徹することを決意した。箱根駅伝前、嶋野のそれまでの努力を知っている同期や後輩が、「太海(さん)の頑張りを証明してくる」と声をかけてくれた。

迎えた当日、2区で池田が日本人トップの快走を見せた。「中継所で見ていて、思わず涙があふれ出ました」と池田が走る姿に、思いがこみ上げてきた。ただ結果は総合14位でシード権獲得ならず。嶋野は「結果は全て自分の責任です。自分に対しても選手に対しても厳しくやってきましたが、叶(かな)わなかったこと、この悔しい思いは一生忘れません」と話し、それでも大学4年間は「成長できた4年間で、一生の財産です」と口にした。

選手に寄り添い、走り続ける

今年2月20日、こどもの国リレーマラソンには嶋野の姿があった。学生最後のレースに出場。嶋野はチームトップの快走を見せ、準優勝に貢献した。「駅伝は楽しい。走るのがやっぱ好きです」と陸上への思いを語った。

嶋野(右)にとって学生最後のレースとなったチャレンジリレーマラソンinこどもの国で、チームトップの快走を見せた(写真提供・saya)

嶋野は実業団への道も考えたが、玉城監督からコーチを進められた。「箱根駅伝でもう一度、チームのために尽力できる。玉城監督の下でやりたい」と4月、コーチの道を選んだ。コーチとして、ときには選手と一緒に補強をしたり走ったりと、選手の目線でアドバイスをしている。

心がけていることは、一歩引いた目線でアドバイスや指導をすること。選手の内側から出てくる言葉を大切にしており、選手が記録を出してくれると素直にうれしい。「日体大が優勝できるチームにしたい。そのためにも個々の選手が成長できるように指導していきたい」と闘志を燃やす。個人としても「5000m13分台を狙います」と走りも続けていくという。

コーチとして日体大の後輩たちに寄り添い、支えていく(右が嶋野、写真提供・saya)

主将として培ってきた経験を生かし、コーチとして日体大のサポートに徹していくことを誓った嶋野。「日体大が好き」という気持ちを忘れずに、再び頂点を目指す嶋野の挑戦が始まった。

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