陸上・駅伝

特集:第97回箱根駅伝

日体大・池田耀平 箱根駅伝2区で日本人1位 「想定通り」に実力を発揮しきれた理由

池田(右)は初の箱根駅伝2区で日本人トップの快走。日体大記録も更新した(撮影・北川直樹)

箱根駅伝エース区間の2区(23.1km)。日本体育大学の池田耀平(4年、島田)が日本人トップを取ると予想できた人は少なかったのではないか。12月4日の日本選手権10000mで学生トップレベルの証しである27分台(27分58秒52)を出してはいたが、同じレースで学生1位となる27分46秒09をマークした駒澤大学の田澤廉(2年、青森山田)が本命視されていた。田澤は全日本大学駅伝最長区間の8区区間賞も取った選手である。チームとしても日体大は予選校だったため、注目度は優勝候補校の選手に比べて低かった。

池田が初めての2区で快走できた理由は何だったのか。どんな4年間の成長過程を経て、今回の結果を出すことができたのか。そして昨年7月に着任した玉城良二新監督の指導が、池田の走りにどう影響していたのだろうか。

想定通りの走りで2区日本人トップ

池田は4位争いをする7人の集団で走っていたが、10km過ぎにその集団を引き離しにかかった。「青学大や東洋大、早大など上位候補が何校かいたので、連れて行ってしまうと日体大がシードを狙うのが苦しくなります。10km通過は28分28秒でしたが、余裕はありました。でも他の選手も余裕があった。もう一段階上げようと判断しました」

15kmまでの5kmは14分42秒。上りのため10kmまでの14分17秒より落ちているが、「感覚的には上げていった」という。14.5km付近では東海大の名取燎太(4年、佐久長聖)に追いついた。

「10km以降は具体的なタイムは設定していませんでしたが、(14km手前から1.5kmほど続く)権太坂で力を使いすぎないように注意しました。その後の下りと平地でリズムを作り直し、ラスト3km(40m上る戸塚の壁)を走りきる。おおよそ、その想定通りに走ることができました」

区間新で走った東京国際大のイェゴン・ヴィンセント(2年、チェビルベルク)には差を広げられたが、池田と名取は創価大のフィリップ・ムルワ(2年、キテタボーイズ)との差を詰め、2位で中継した創価大から2秒差で名取が、名取から1秒差で池田が3区に襷(たすき)をつないだ。

ムルワ(中央)、名取(左から2番目)に次いで池田(奥)は4位で襷リレー(撮影・藤井みさ)

池田のタイムは1時間07分14秒でY・ヴィンセント、国士舘大のライモイ・ヴィンセント(3年、)に続く区間3位。気象条件は相澤晃(東洋大4年、現旭化成)の区間新など、好記録が続出した昨年ほどはよくなかった。池田が目標としていた1時間6分台は出せなかったが、日体大記録の1時間07分34秒は更新した。2区が現行コースとなった最初の1983年大会で大塚正美(日体大4年)が出したタイムで、95年に渡辺康幸(早大3年、現住友電工監督)に破られるまで12年間、学生選手たちの目標となったタイムである。

「ラスト1kmは想定以上にキツくなっていました。もう少し絞り出せたら1時間6分台も見えたのですが、苦しい中でも自分の力は出し切りました」。日本選手も池田、東洋大の松山和希(1年、学法石川)、田澤、名取が1時間07分30秒以内で走った。断トツの走りではなかったが、集団を抜け出して前との差を詰めた池田の走りが、最もインパクトが大きかった。

11月までは予定になかった池田の2区

しかし池田の2区出場は11月まで「あまり考えていなかった」と玉城監督は言う。「池田自身は『行けと言われれば何区でも行きます。上りも行けます』と言ってくれていたのですが、練習を見たら後半に起伏があるコースはちょっと難しいと思いました」

箱根駅伝は2、3年時に1区を走り、前回は区間3位と好走している。箱根駅伝全体の傾向としても、「エースは2区」という起用法にこだわらず、選手個々の適性を見て判断されることが多くなっている。チーム内では池田の2区以外の起用が有力だった。

2区起用は日本選手権の結果を受け、玉城監督が池田に持ちかけた。「日本新記録で優勝を争った相澤君と伊藤(達彦・Honda)君は、昨年の箱根駅伝2区で競り合った2人です。“箱根から世界へ"の理念が現れたのが日本選手権でした。池田も同じ舞台で27分台を出しましたから、将来世界で戦うなら2区に行くべきだと伝えました。本人にその覚悟がしっかりできたことが、集団を抜け出す走りや、大塚さんを超えるタイムにつながったのだと思います」

「将来世界で戦うなら、2区へ行くべきだ」。日本選手権のスタート時、池田(中央)の隣には伊藤(6番)がいた(撮影・藤井みさ)

スピード的には27分台を出したことで、10km通過が28分28秒でも余裕を持つことができたと池田はいう。

上り対策としては静岡県裾野市で合宿を行った。起伏のあるロードやクロスカントリーコースが、異なる標高で設けられている合宿地で、池田は1、2年時に使用したことがあった。「1年のときは力のなさを思い知らされた場所です。監督と相談して選手3人で合宿し、2区の上りを意識したトレーニングを行いました」

動きの中では「腕振り」を意識している。「平地を走るときと比べて大きく、肩甲骨まで引きつけるイメージで振ります。前を見るとキツく感じてしまうので、前傾をして少し下の方を見る感じで走ります」

27分台を出したことで箱根駅伝のスピードに余裕を持てたこと、そして上り対策の合宿を順調に行えたこと。12月に入って2区への準備は良い形で整っていった。

しかし日本選手権と箱根駅伝を連戦することは、簡単なことではなかった。実際のところ日本選手権で好成績を残しても、箱根駅伝やニューイヤー駅伝で力を発揮できなかった選手がかなり出ていた。トレーニングの流れなど選手個々で状況は異なるので安易な比較はできないが、池田は箱根駅伝に向けたピーキングがしっかりできたと言う。

「箱根で外すことはあり得ない」と考え、ここまでトレーニングを積んできた(撮影・北川直樹)

「箱根は一番大事な舞台ですから、外すことはあり得ません。箱根を大前提に夏もトレーニングができましたし、日本選手権前の調整は1週間だけで、(28分10秒57の自己新を出した)11月の記録会前も、箱根に向けて距離を踏めていました。ベースができたなかで、1週間スピードを上げて日本選手権に臨み、日本選手権で弾みを付けて、箱根はもう一段階良い状態にできたと思います」。直前だけでなく、夏からのトレーニングと試合の中期的な流れが、池田の箱根駅伝の快走につながった。

継続してきたのはウエイトトレーニングと自分で考えること

そして長期的に見た場合、1つ1つ課題をクリアしてきた池田の4年間の成長が、箱根駅伝2区に現れた。高校(静岡県島田高)3年時にはインターハイ1500mで5位に入賞した。5000mは決勝に進んだが15位で、両種目の自己記録は3分49秒74と14分18秒23。どちらかというとスピードが特徴の選手だった。

日体大では1年時から活躍することが期待されたが、ケガを繰り返して駅伝メンバーには入れなかった。「1年時は焦りから、故障が少し良くなったところですぐに走り始めてしまって、また故障をすることを繰り返していました。2年になったところでスピードはひとまず置いて、地道に走り込みを始めたんです。フォームも大学1年までは蹴りの強い動きでしたが、2年時からはリズムの良いピッチに変えました。蹴らない走りを目指して普段のジョグを行うようにしましたね」

2年時には学生駅伝3大会で1区を任されるようになったが、すぐに通用するレベルには至らない。区間14位、13位、12位とふた桁の区間順位でしか走れなかった。

3年時に、2年時から取り組んできた新しい動きと、もともとの特徴である蹴りの強さが「上手く重なり始めた」と感じられた。5000mは13分58秒52、10000mは28分47秒05と、ともに自己記録を大きく更新。出雲はチームが出られなかったが、全日本は区間8位、箱根は区間3位と1区で好走し始めた。

「2年のときの箱根はトラックのタイムもなく、あまり自信を持てませんでした。ついて行って粘ることしか考えられず、攻めのレースができませんでしたね。3年のときはタイムとしては今一歩ですが、初めて28分台を出すことができ、調子だけなら今回より良かったかもしれません。そのくらい、自信を持ってスタートできました」

3年次には1区を担当した池田(左)。「自信を持ってスタートできた」と思い返す(撮影・安本夏望)

4年間のなかで長期的に継続して取り組んだこととして、池田は「ウエイトトレーニング」と「自分で考えること」を挙げている。

ウエイトは故障の多さを解決するために始めたが、その後も走る練習の合間に取り入れて、臀部や大腿裏など大きな筋肉を走りで使えるように刺激を入れた。「ウエイトと走りを意識付けすることで、ふくらはぎを使わずピッチで走れるようになりました」

また池田の2年時の途中から日体大は、長距離の指導者が不在になった。「自分で考えることが試される状況になりました。それまで教わったことと自分の経験を照らし合わせ、そのときどきの自分に必要なことは何かを考える期間が2年間続きました」

池田が4年時の7月に日体大OBで、長野東高を全国高校女子駅伝2位に二度導いた玉城監督が着任した。萩谷楓(エディオン)ら、同高卒業生は個人でも全国レベルで活躍している選手が多い。「玉城監督はジョグを大事にする考え方で、夏合宿で起伏のあるクロスカントリーコースなどを地道に走り込みました。基本のジョグを再確認して、丁寧に行いましたね。それまで2年弱自分で考えてやって来たことと、玉城監督の方法が噛み合ったのだと思います」

池田は新しいトレーニング・パターンも吸収して、箱根駅伝にピークを合わせることに成功した。

4年生が頑張った日体大

その玉城監督は「長距離は毎日の練習が大切なんです」と強調する。「ポイントさえしっかり走ればいい、という練習の仕方を否定するわけではありませんが、それだけでは選手は自信を持てません。やることは、その日、その日の練習の目的で変わりますが、それを理解して行うことが重要です。毎日行うのはジョグです。速いジョグでも遅いジョグでも、すべてのジョグの質を上げて走ります。池田も当初はその練習ができずに苦しんでいましたが、その後は故障しないできちっと継続してできるようになり、持っている力を引き出せるようになりました」

7月の着任時には「予選会突破も難しい」と玉城監督は感じたが、新監督の提唱する練習を理解した選手たちが頑張り始めた。9区で区間5位の野上翔大(4年、青梅総合)のように、それ以前からジョグをしっかり行うことができた選手もいた。

野上(左)ら4年生はチームの中心的存在となり力を発揮した(撮影・北川直樹)

「新監督が誰でも、4年生を中心に上がってきたと思います」と玉城監督。「専門的な指導者のいない期間や、コロナによる自粛期間が明けて、“さあ、やってやろう"というエネルギーが彼らから感じられました」。4年生の最終学年に懸ける思いが、今年の日体大の原動力になった。予選会を確実に突破し、本戦の連続出場を、現在続けている大学では最多の「73」に伸ばした。

池田の2区の走りにも、4年生としての思いが強く現れていた。前を走る名取の背中が視界に入り、「これ以上ないシチュエーションだな」と思って追いかけられた。

「インターハイの5000mでは名取、塩澤(稀夕・東海大4年)、吉田(圭太・青学大4年)、西山(和弥・東洋大4年)、神林(勇太・青学大4年)ら、ずっとトップレベルで走っている選手たちがいて、1000mで引き離されました。大学では絶対に勝ってやる、と思って日体大で走ってきました」

特に名取は、4年前の全国高校駅伝1区の区間賞を取るなど、学年を代表する存在だった。1年目で結果が出なかったときも彼らの存在を励みとし、4年間をかけ、少しずつ背中に迫ってきた。「まだ彼らに勝てたとは思っていませんが、10000mの記録と2区では学年で一番上に立つことができました。4年間、色々ありましたが、成長したことは感じられた2区になったと思います」

卒業後はカネボウに進み、マラソン元日本記録保持者の高岡寿成監督のもと、マラソンで世界を目指す。

「10000mで27分30秒前後を出し、しっかりスピードをつけて、マラソンで五輪代表を目指します」。ときには同学年選手たちと並走するかもしれないが、今度は相澤ら先輩選手たちの背中を追っていく。

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