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特集:東京オリンピック・パラリンピック

甲子園大・板橋美波 信念を武器に絶望という壁を打ち破り、荒井祭里と五輪に挑む

病気やけがを乗り越え、板橋はまたオリンピックの舞台に挑む(代表撮影)

板橋美波(甲子園大学4年/JSS宝塚、甲子園学院)のこれまでの大学生活を振り返ると、胸が苦しくなる。どれだけ彼女が頑張り続けてきたのか。気持ちが折れそうなところで、いかに彼女が踏ん張ってきたのか。

どんなに苦しくても気分が悪くても、態度や言葉であらわにすることはなかった。インタビューでは関西らしさあふれる口調で、取材陣を笑わせることも多々あった。「調子はどう?」と聞くと、調子が良くても悪くても「まあまあですね」と笑う。故障した体をいたわると「大丈夫ではないですけど、何とか大丈夫です」と笑う。きっと仲間内には弱音も吐いていただろうが、それを表にすることは一切なかった。

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「手術する前の自分よりも、もっと強くなっていけたら」

そんな彼女が、涙を流した。今年5月に開催された、東京オリンピックの最終予選となっていたFINAダイビングワールドカップ。ペアを組む荒井祭里(武庫川女子大学3年/JSS宝塚、甲子園学院)と臨んだ女子10mシンクロ。個人としての演技の完成度と同時に、ふたりの同調性も求められるこの種目で、板橋と荒井のふたりは7位入賞を果たし、夢の舞台への切符を手中に収めた。

その瞬間、東京オリンピックへの思いが涙となってあふれた。自分が歩んできた波瀾万丈の4年間も相まって涙が止まらなかった。

「手術する前に比べて失ったものもたくさんあるんですけど、それ以上に新しく得たものもある。手術する前の自分よりも、もっと強くなっていけたらなって思います」

世界で唯一の武器である109C

14歳で日本の頂点に立った当時から、板橋のバネはずば抜けていた。後ろ宙返りで飛び込む際に選手たちはつま先立ちになるのだが、そこでお尻に浮き出る握りこぶしのように盛り上がる筋肉が、板橋のバネの強さを物語っていた。

初めて日本一になった翌2015年に行われたFINA世界選手権(ロシア・カザン)。そこで板橋は、109C(前宙返り4回半抱え型)と呼ばれる大技に挑んだ。世界では男子選手も飛ぶ種目になったが、日本ではまだ飛べない選手がいるほどの難しい種目。つまり男子選手並みの回転スピードと、それを生み出す瞬発力が必要になる。

FINA世界選手権は準決勝敗退となったが、板橋は世界に存在感を示した(撮影・朝日新聞社)

おそらく、世界にも回転するだけなら4回転半ができる女子選手は多くいるだろう。だが、回転が速いだけではこの109Cは飛べない。ハイスピードで4回転半した後に回転を止め、まっすぐに入水する姿勢を作る必要があるからだ。板橋が持つバネは、それらを全て現実にした。世界選手権の高飛込予選で109Cを飛んだ板橋は、男子選手並みのスピードで回転し、きっちりと入水し切ったのである。

板橋の挑戦に対し、固唾(かたず)を呑(の)んで見守る観客たちから入水した瞬間、爆発的な拍手が沸き起こる。歴史的な瞬間に立ち得た喜びが、観客、そして関係者から伝わってきた。本人も「緊張したけど、うまく入水できてホッとしています」とうれしそうな表情を浮かべていた。準決勝では残念ながら109Cの入水が乱れてしまい得点が伸びず、決勝には進めなかったが、「109Cを決めたジャパニーズガール」として世界に大きな爪痕を残したのである。

センセーショナルな世界デビューを果たした板橋は、リオデジャネイロオリンピックでは調子が上がらず、失敗する可能性が高いと判断して109Cを回避。それでも日本の女子高飛込としては、実に80年ぶりとなるオリンピックでの8位入賞を果たす。

板橋はリオ五輪で日本の女子高飛込では80年ぶりとなる入賞を果たした(撮影・朝日新聞社)

109Cでチャレンジできなかった悔しさは、翌17年のFINA世界選手権(ハンガリー・ブダペスト)で晴らす。決勝で109Cにチャレンジし「完璧ではないけどいい演技だった」と高得点をマークして7位入賞。世界大会でひとつずつ順位を上げ、109Cの完成度も上がりつつあった板橋。東京オリンピックに向けて順調に強化が進んでいると思われた矢先に、試練が襲う。

ひとつのミスで途絶えた夢

大学1年生となった18年に、右目に網膜剥離(はくり)を発症。同年4月に手術をした。そういう状況ながらアジア競技大会には出場したものの、網膜剥離の影響から個人の高飛込は回避。出場した1m飛板飛込でも思うような結果は残せなかった。

だましだましではあるがトレーニングを続け、網膜剥離から復帰しつつあったところに、追い打ちをかけるよう、19年には左脚の疲労骨折が判明。同年の世界選手権への出場も叶(かな)わないどころか、選手生命にも関わるほどの故障だった。それでも、オリンピックを目指したかった。

すねにプレートを埋め込んでまで挑戦することを決めた板橋。20年2月に行われたオリンピック最終予選となるワールドカップへの国内の代表選考会で、2本目の逆立ちをする種目でバランスを崩し、逆立ちをやり直しすることになり減点。本来60~70点は獲(と)れる種目だが、減点の影響もあって20点台となってしまう。その差は大きく、挽回できずに敗北。個人で東京オリンピックへ出場することは絶望的となった。だが、板橋は決して恨み節も後悔も言い訳も、口にしなかった。全ては自分の責任だと涙をこらえ、気丈に答える。アスリートとしての矜持(きょうじ)を持つ姿がそこにあった。

「単純に実力不足。やることができていれば勝てただけですから、当然の結果だと思います。練習もできていませんし、自分の実力不足です」

信念で切り拓いた東京五輪への道

この直後、東京オリンピックの1年延期が発表された。ただ、最終予選への出場権は保持されるため、板橋の個人でのオリンピック出場が叶わないのは変わらなかったが、荒井とともに出場するシンクロ種目への気持ちを切り替えるには、十分な時間だった。

1年延期を受けての挑戦、板橋(右)は荒井とともに戦ってきた(撮影・諫山卓弥)

そして今年5月、荒井とペアを組んだ10mシンクロ種目で、板橋は2度目のオリンピック代表を勝ち取った。脚にはプレートが入ったまま。体の状態も完璧ではなく、演技も「6、7割くらい」という状況ではあったが、板橋らしい思い切りが良く、力をつけ始めた荒井に負けず劣らず鋭い回転力を披露してくれた。

「本番は予選もない一発勝負。ひとつのミスが大きく順位を下げてしまうので、ミスをしないことを課題に練習していきます」

大学1年生で網膜剥離、2年生で疲労骨折。3年生ではコロナ禍と、思うような競技生活を送れなかった大学生活だったかもしれない。しかし、板橋はどんな時も前を向いてきた。涙を拭ってこらえて、上を見続けて飛び続けてきた。今は109Cは飛べない。それでも自分にできることをひとつずつ、一歩ずつでも前に進んでいけば、必ず道はつながると信じてきた。その信念が、東京オリンピックへの道を切り拓(ひら)いた。

板橋(左)と荒井、東京五輪で最高の演技を魅せる(撮影・諫山卓弥)

「もう最後なんだからいってしまえ、という感じで思い切って飛びました」

リオデジャネイロオリンピックで板橋が話した言葉をそのまま板橋へ贈りたい。待ち望んだ東京オリンピックの舞台で、思い切って攻める板橋と荒井の演技が待ち遠しい。

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