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特集:東京オリンピック・パラリンピック

順大・泉谷駿介、ドーハの悔しさを五輪で晴らす 「感動させる走り」で13秒0台を

6月の日本選手権110mH決勝で泉谷は13秒06をマークし、自己ベスト(13秒30)を大きく更新した(撮影・池田良)

6月の日本選手権で泉谷駿介(順天堂大4年、武相)は110mHで13秒06(追い風1.2m)の日本新記録をマーク。日本人初の13秒0台となったこの記録は、アジア歴代2位、そして今季世界ランキング3位につけている。一躍東京オリンピックのメダル候補になったが、「1回だけ出したタイムであって、アベレージではない。実際の実力は3番だと思っていないので、まだまだしっかりと練習が必要だなと思っています」と冷静だ。

順大・泉谷駿介 追い風参考で13秒05、五輪につながる日本選手権で勝ちたい

けがで欠場した世界選手権を乗り越えて

日本記録保持者となった泉谷だが、実はシニアの国際大会は東京オリンピックが初になる。2019年の世界選手権(ドーハ)には、金井大旺(ミズノ)と高山峻野(ゼンリン)とともに出場する予定だったが、その2週間前にあった日本インカレで肉離れを起こし、現地で欠場を決意した。泉谷は日本インカレに110mHのほか、4×100mリレー、走り幅跳び、三段跳びの4種目にエントリーしていた。大会2日目に110mH予選と走り幅跳び、4×100mリレー決勝があり、その最後のリレーで異変を感じた。高校時代は八種競技に加えて三段跳びにも取り組む過密スケジュールで大会に出ていたこともあり、自分がけがをするとは思っていなかったという。本来であれば自分が立つはずだった舞台。泉谷は予選から決勝まで、悔しさを胸に全てを目に焼き付けた。

振り返ると大学1年生の時は自主練習も多く取り入れ、常に体が張っていたという。それでも治療に行くのは疲れを感じた時のみ。今は自分の体と向き合い、走る本数もセーブして練習メニューを考え、治療には週1~2回のペースで通うようになった。食事も栄養を意識してとり、好きなお菓子も「禁止したらちょっときつかったので、禁止はしないけど、ほどよくうまく付き合っていこうと思っています」と調整している。

今年3月には日本選手権室内で60mHに出場し、予選で7秒56の室内日本新記録、決勝では7秒50と更に記録を伸ばして優勝。そして6月の日本選手権では110mHでも日本記録保持者になるが、その1カ月前にあった関東インカレでは、110mH決勝で追い風5.2mの参考記録ながら13秒05の速さを体感している。「確かに追い風参考での記録と近い記録が出ているなとは感じていますけど、関東インカレと今回(日本選手権)の走り方はまた違っていたので、違う形で再現できたんだと思います」とコメント。特に日本選手権では後半にタイムを上げられたことに手応えを感じている。

泉谷は60mHに続き、110mHでも日本記録保持者になった(撮影・池田良)

かつてない悔しさと痛みを味わったインターハイ

泉谷は中学校で陸上を始めたが、その前にはサッカーをしていた。花形ポジションとも呼ばれるFWで、練習にもついていけていたが、やってみるとあまり楽しめなかったという。そんな中、小学校の先生から「足が速いから陸上をしたら?」と言われたことで陸上に気持ちが向いた。そのサッカーも、今では好きなスポーツのひとつだ。

中学校では「単純に試合に出られなかったから」という理由で四種競技に取り組んだが、当時は全国で活躍できるほどの記録は残せなかった。記録が伸びていたのが走り高跳びだったため、武相高校(神奈川)では走り高跳びから競技を始めた。中学校の時は身長が170cmもなかったが、高校になってから少しずつ身長が伸び、ウェイトトレーニングで体も大きくなった。投てきも記録が伸び始めたため、改めて八種競技に取り組んだ。

泉谷が「今までにないくらい悔しい思いをした」と話すのが、高2で迎えたインターハイだ。八種競技に出場し、泉谷は14位。同期の原口凜(国士舘大4年、武相)は8位だった。「絶対入賞できると思っていたのに、まだまだ考えが甘かったです」。そこからは意識を変え、ジャンクフードや菓子パンを全てやめ、嫌いだった野菜も食べるようにした。次第に体つきが変化していき、顧問の田中徳孝先生は泉谷の体を理解してくれた上で、泉谷自身が考えて競技ができるようにうながしてくれたという。

東京オリンピックが決まった時、高校時代の仲間は「お前、またやったな」と祝福してくれた(写真提供・順天堂大学)

最後のインターハイにつながる南関東大会では、泉谷は八種競技で原口に次ぐ2位、三段跳びでは3位に入り、インターハイでは八種競技で1位(原口は2位)、三段跳びでは3位と結果を残した。そのインターハイで八種競技を終えた直後、三段跳びがまだ残っていたにもかかわらず、安心からかそれまでに味わったことがないほどの胃の痛みを感じたそうだ。高校時代にともに戦ってきた仲間からは今も刺激を受けており、互いの競技に対してアドバイスをし合っているという。

U20世界選手権で敗れたD.トーマスにリベンジを

「世界を目指す」という意識から、順天堂大学に進学してからは専門を110mHや走り幅跳び、三段跳びに変更。その中でより記録が伸びてきた110mHに注力し、現在に至る。跳躍で踏み切りを鍛えてきたからこそ、ハードルでも勢いよく踏み切れていると実感している。今は跳躍を“封印”しているわけだが、「世界を目指すならハードルかなと思っているので、これからも結果を出せられるように頑張って、出られそうな機会があれば跳躍も出てみたい」と話す。普段は後輩の村竹ラシッド(2年、松戸国際)と競り合いながら練習しており、その経験が6月の日本選手権決勝で金井に並ばれた時にも生き、焦らずレースを組み立てることができたという。

村竹(左)の存在は泉谷の力になっている(撮影・藤井みさ)

東京オリンピックで目指すのは「感動させる走り」。それを分かりやすく示すのは記録であり、結果であると泉谷も理解している。例えレースが無観客になったとしても、「テレビの前で応援してくれていると思って頑張ります」とモチベーションが下がることはない。イメージしているのは13秒0台の走り。6月のジャマイカ選手権で13秒11(追い風0.6m)で2位だったD.トーマスは18年のU20世界選手権で敗れた相手だ(トーマスが13秒16で1位、泉谷が13秒38で3位、ともに追い風0.3m)。「今回でしっかりと借りを返したい」と意気込む。

東京オリンピックをかけた一発勝負の日本選手権はさすがに緊張と不安を感じていたが、試合前は割とリラックスできる方らしく、今は「ワクワク感の方が大きいです」と笑顔で話す。日本選手権で多くの人々を魅了したあの走りを、今度は世界最高峰の舞台で狙う。

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