見えない力に流され世代トップの投手になり、ドラフト1位でプロ入団へ 斎藤隆3
東北福祉大学からドラフト1位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団、MLBでも7年間プレーした斎藤隆さん(51)。現在は野球解説者として多方面で活躍しています。今回の「4years.のつづき」では、斎藤さんが「人生が変わった」という大学時代を中心に振り返ってもらいました。4回連載の3回目は、投手に転向して運命が動き始めたこと、プロ入り当初に感じていたことについてです。
手応えなどないまま、いつの間にか世代トップに
「本当に変な1年間だったんですよ」。2年生の秋に投手に転向してから、3年生の秋までを振り返る。今まで苦しんだのが嘘のように、なにか見えない力に押されて自分が動いているような気もした。そしてどんなに頑張っても野手ではベンチ入りできなかった全国大会だが、3年の秋の神宮大会で投手としてベンチ入りすることになった。実戦で初めて投げたのは、神宮球場のマウンドで日体大が相手だった。リリーフで登板し、ホームランを打たれはしたが試合には負けなかった。当時の球速は130km台後半。だがここからさらに、斎藤さんは投手として成長していった。
4年生から本格的に実戦でも投げるようになった。当時、東北福祉大は社会人野球のチームと積極的に練習試合やオープン戦などで戦っていた。斎藤さんはリリーフとして1、2イニング投げることが多かった。投手としての自分に、手応えは感じていたのだろうか? と聞くと「あんまり手応えとかって感覚はなかったですね」。だが4年の春には球速は144、5kmを計測していた。
この頃から斎藤さんは一躍「世代トップの投手」として取り上げられるようになった。6月の全日本大学野球選手権に先発し、東洋大学を完封し、そこから一躍「プロ注目」とメディアにも報じられるようになった。同月に開催された日米野球のメンバーにも選ばれ、リリーフとして登板。2戦連続で負け投手とはなったが、日本の代表として戦った。
「恥ずかしいぐらい運命に流されてる」
その頃のことを「何をやってもスーッといい感じでいけちゃう感じ」と斎藤さんは表現する。だが、投手としての自分にしっくりきているわけではなかった。不思議なほど状況が好転していくことに戸惑い、「変なことになったな」「なんだなんだ」と思っていた。「周りだけがザワザワしている感じで、ずっとギャップが埋まらなかったですね」
投手として誰かにしっかり指導されたということもなかった。同期の作山和英さん(現ソフトバンクホークススカウト)だけには、悩みを相談したり、変化球の投げ方を教わったりしていたが、とにかく、手探りで実力を高めていったという表現が正しいという。ただ前述の通り、当時の東北福祉大にはプロに進む選手が何人もいた。練習や試合などで高いレベルに触れ続けていることがよかったのかもとも振り返る。
4年生の秋の明治神宮大会が終わったあとのこと。春頃から「確実にドラフトにかかるだろう」とは言われていたが、「もしかしたら1位で(指名が)来るかもしれない」と言われた。そう言われてもピンとこなかった。「プロにいって、野球を続けるんだ」ぐらいの気持ちで、どこか他人事のような感じもあった。
自分の考える姿とのギャップが埋まらない状態で、どんどんと周囲が動いていく。そんな状況にあらがってなにかしよう、という思いは一切なかった。自分を必要としてくれるなら、どこにだって行こう。そして斎藤さんは横浜大洋ホエールズと中日ドラゴンズから1位指名を受け、抽選の結果ホエールズへの入団が決まった。
運命に流されている、という感じでしょうか? と思わずたずねると、「はずかしいぐらい流されてるんですよ」と笑う。流れるままに身を委ね、斎藤さんは1992年にプロ野球選手となった。
プロで感じた、自分の球への自信
「自分を求めているところならどこでもいい」と思っていた斎藤さんだったが、入団当初の横浜大洋ホエールズの雰囲気はあまり良くなかった。そして「ドラフト1位で入った」ということで、自分は順位など何も意識していないのに、ことさら他の選手から意識された。「ドラ1のくせに」「ドラ1を打ってやろう」という、敵チームのみならず、チーム内の選手達からの強烈な対抗意識に戸惑うことも多々あった。
93年に親会社の大洋漁業がマルハに改称することに伴い、球団名が「横浜ベイスターズ」に一新。ユニホームやマスコットも新しくなり、球団として「変わろう!」という意識が強く打ち出された。斎藤さんもそのいい流れに乗り、シーズン途中から先発ローテーションの一員として定着。8勝を挙げ、完全にチームの主力の一人として扱われるようになった。
だが、大学3年から本格的に投手としてプレーを始めた斎藤さんには、圧倒的にマウンドでの経験が不足していた。「『投手として使い減りしてない』と言われたりもしたんですが、それはすなわち経験が浅くて、投手能力、偏差値みたいなものがすごく低かったんです。ベースカバーに行かずに怒られる、牽制球のパターンが少ない、癖がバレる。ひどいもんです(笑)」
ただ、ブルペンで他の投手と並んで投げても、「こいつに負けてる!」と思ったことはほとんどないのだという。制球力が悪かったり、すぐ体を痛めてしまったりもするし、投手としての資質、アウトを取る術は誰よりも持っていない。けれど、投げたら強いし、速い。それだけは感じていた。「いいところかはわからないんですけど、なんか俺ってゆるいんです」と言って笑う。
投手初心者とも言える状態でプロ入りした斎藤さんは、その後現役を実に24年も続ける。その「ゆるさ」も長く続けられた秘訣だったのかもしれない。
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