東北福祉大2年で突然の投手転向宣告、戸惑いながらも受け入れて 斎藤隆2
東北福祉大学からドラフト1位で横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団、MLBでも7年間プレーした斎藤隆さん(51)。現在は野球解説者として多方面で活躍しています。今回の「4years.のつづき」では、斎藤さんが「人生が変わった」という大学時代を中心に振り返ってもらいました。4回連載の2回目は、大学2年の終わりに思いがけず投手に転向したことについてです。
刺激の多かった東北福祉大「黄金時代」
斎藤さんが入学した年には、4年生に上岡良一さん(元日本ハムファイターズ)がいた。そして3年生には佐々木主浩さん(元横浜ベイスターズ)、大塚光二さん(現東北福祉大監督)、2年生には矢野燿大さん(現阪神タイガース監督)、同学年には金本知憲さん(元阪神タイガース監督)、浜名千広さん(元ダイエーホークス)などそうそうたるメンバーが揃っており、東北福祉大の「黄金時代」とも言われていた。プロに行かなかった選手の中にも、レベルの高い選手がたくさんいた。なかなか試合に出られないときでも、先輩たちのレベルの高いプレーを見られたことは斎藤さんの糧になっていった。
チーム内の上下関係もまったく厳しくなかった。もちろん規律を破れば怒られるが、1つ上の先輩は仲良く、かわいがってくれた。「そういう意味では、のびのびとやらせてもらったなと。1年生の当番の仕事とかは、いまだに思い出しても嫌ですけど(笑)」
刺激が多く、かつストレスのない環境ではあったが、翻って自らのプレーを見てみると、足は遅い、長打力はない。「長距離バッターになりたかったけど打球も上がらなくて、今思うと本当に中途半端な選手でした」。2年生になって、ベンチ入りメンバーを決める練習には呼ばれるが、いつもぎりぎりのところでベンチ入りを逃す。そんなことが何度も続き、「まずいぞ」という気持ちが大きくなっていった。
「打てなかったら投手にしよう」
当時、東北福祉大学は仙台六大学野球連盟リーグ戦負けなし、春は全日本大学野球選手権、秋は明治神宮大会の常連となっていた。斎藤さんが2年の秋、神宮大会への出場権を得るために東北福祉大は北海道地区の代表と戦うことになった。その時はたまたまベンチ入り人数が30人と多く、斎藤さんもベンチに入っていた。
宮城球場(現・楽天生命パーク宮城)での試合。昼の弁当を食べてやることがなかった斎藤さんは、遊びでチームメートとブルペンに入って、投手の真似事(まねごと)をしてキャッチボールをしていた。それを伊藤義博監督が見ていた。「あとから聞いたんですけど、監督が『あれ誰だ?』って聞いて、『タカシですよ』ってなって。『じゃあこの試合で代打に出して、打てなかったら投手にしよう』って言ったらしいんですよ」
午後行われた試合に東北福祉大は勝ち、無事に神宮大会への切符を手に入れた。そしてそれは、斎藤さんの野手人生が終わった日でもあった。「代打で出されて、ノックみたいなダブルプレーを打って。4-6-3で野手を終えました」。ベンチに戻ったらチームメートみんなが笑っていた。「やっぱりだめか~、みたいな感じだったんですよ」。その光景は、今でも目に焼き付いて離れない。
悩むも腹を決めて投手に転向
「投手をやれ」という突然の宣告。当時の斎藤さんには、いきなり言われても受け入れられない、という思いのほうが強かった。「投手をやれ、というよりも、野手はもういいから、と言われたことばかりが頭に残ってしまって。本気で野球をやめようかどうしようか、1週間ぐらい悩み続けました」。それでも、野球をやりたいからと大学に行かせてくれた親のことを考え、どうせダメだろうけど、やるだけやってみよう、と考えを改めることができた。そして初めてブルペンに入ってみた。
当時の伊藤監督は、指導をしないことで有名な人だった。もちろん、斎藤さんもそれまで怒られたことはあれど、一度もアドバイス的なものは受けたことがなかった。しかしこの時、斎藤さんがブルペンに入ると、監督がやってきて「体の中心から投げ下ろせよ」と言われた。それも驚きの体験だった。
そこから投手としての選手人生が始まった。バッティングピッチャーを務めたり、練習試合でリリーフを務めたりして「あれよあれよと自分の人生が変わりましたね」と斎藤さんは表現する。たまに試合で投げて「お前の球いいよ」と言われても、何がいいのかさっぱりわからなかった。なんとかストライクいっぱい投げたい。その気持ちだけで「投手・斎藤隆」として歩み始めた。
そして信じられないぐらい、斎藤さんの周りの物事が動き始めた。
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