「野球をやりきりたい」と三重大学中退を経て筑波大学へ 寺田光輝1
元プロ野球選手の医師誕生となるか。7月、横浜DeNAベイスターズでプレーした寺田光輝(こうき)さん(29)が東海大学医学部の編入試験に合格したというニュースが飛び込んできた。野球で挑戦をつづけ、そして医師の道へ。寺田さんの大学時代からの挑戦と、その後について、連載「4years.のつづき」としてお届けします。
打たれて負けて芽生えた「プロになりたい」思い
三重県出身の寺田さんは、祖父、父、伯父2人が医師という「医者一家」に生まれた。小学校3年のときに地元の野球チームに入り、ピッチャーから始まったが、途中から外野など他のポジションも経験。中学校に進んでもレギュラーメンバーにはなれなかったが、「野球が好き」という気持ちは変わることはなかった。
高校は地元の進学校である県立伊勢高校へと進んだ。伊勢高校の甲子園出場実績はなし。そもそもレギュラーでなかった寺田さんは、「自分が試合に出られそうなところ」という基準で高校を選んだのだという。2年の夏からリリーフとして登板し、3年の春季三重大会では同級生の中里さんと交代で先発を任された。寺田さんの学年は全部で9人と少人数で、チームの雰囲気はとても良かった。準決勝まで勝ち上がり、学校としては1998年の夏以来の県ベスト4。それまで顧問をしていた先生が2年の終わりに転勤したが、「ベスト4以上を狙えよ!」と言われていた。「約束を果たせて嬉しかった」と当時のことを思い返す。
しかし準決勝では、先発して負け投手に。迎えた高校3年の夏は三重県大会で4回戦(ベスト16)まで勝ち上がったが、菰野(こもの)高校と対戦し、先発の中里さんから代わった自分が打たれ、1-8のコールド負け。「チームメートや、応援してくれた人に申し訳ないという気持ちがありました。そこで初めて『プロ野球選手を目指そう』と思ったんです。この申し訳ない気持ちを挽回するには、プロになって周りの人に『やってやったぞ!』と見せたいなと思うようになりました」
大学入学するも、いきなり自信喪失
大学受験をし、三重大学に進学。当時、東海野球連盟内で強さを誇っていた三重中京大学(13年に閉校)とリーグ決勝を戦い競り負けるなど、公立ながら健闘していたチームだ。「公立なのにそこまでできるのか、面白いな、と興味をもったのがきっかけでした」。しかし入学してそうそうに、同期で入学した2人の投手とキャッチボールをして衝撃を受けた。今までに見たことのないようなボールを投げられたのだ。「度肝を抜かれました。『どうしたら、そんな球が投げられるの?』とメールしたんです」。同期からは「俺もお前の球を受けて、すごいなと思ったよ」と返事をもらったが、レベルの違いを目の当たりにしてすっかり自信を失ってしまった。
やっぱりプロ野球選手になるのは厳しいかもしれない。芽生えたその思いはなかなか消えてくれなかった。そして医者一家ということもあり、勉強ができるできないにかかわらず、「医者になる」という選択肢はずっと心のなかにあった。「野球が無理そうなら、本気で勉強して医者になろうかなと……」。夏休みを前にして進路をじっくり考えたいと、休学を決めた。
「めっちゃ球速くなってますよ!」
そこからは医学部に入るために勉強をしたが、その冬の入試は不合格。「でも2年目には勉強に身が入らなくて、フリーターみたいになってました。バイトしつつ、体を動かすのは好きだったからトレーニングはしてましたね」。そんな時に筑波大に進んだ高校の後輩が帰省してきて、一緒にキャッチボールをすることになった。後輩は寺田さんの球を受けて、「めっちゃ速くなってますよ!」と驚き、「筑波で一緒にやりましょうよ」と誘ってくれた。それをきっかけに寺田さんの野球への気持ちが再燃してきた。「プロになれるとかなれないとか関係なくて、野球をやりきりたい!と思うようになりました」
寺田さんは中日の浅尾拓也投手(現中日二軍投手コーチ)に強く憧れていた。浅尾さんと同じ日本福祉大学でやってみたいという思いもあったが、「野球で芽が出る確率は低いんだから、単に浅尾さんが行っていたからという理由でその大学に行くのはだめ」と家族に反対された。そこで後輩から誘いのあった筑波大学を受験し、合格。20歳の春、寺田さんは初めて関東に出てくることになった。
「毎日やめたい」でも本気で野球に向き合う
筑波大学にやってきて、初めて感じたことは「水がまずいな! と思ったんです。その印象がすごく強かったですね。あとはみんな標準語なので、はじめは少し疎外感を感じました」。野球部員は120人ほど。入部してすぐにレベルの高さを感じた。「来たところ間違えたかなと……後輩に騙されたと感じました(笑)」。春の公式戦の応援に行き、スタンドから先輩たち、相手チームのシートノックを見て「ヤバいところに来てしまった」という思いはさらに大きくなった。それは三重大学で同級生の球に打ちのめされたときの衝撃よりも大きいものだった。
「正直言って、毎日やめたいと思ってました」と寺田さんは笑いながら思い返す。「きびきびした感じとか、上下関係の厳しさとかも好きじゃなかったので、適当にやりたいな、と自分の心の弱い部分が出てしまいました。だけど、ここには野球をやるつもりで来たんだからと。本気で立ち向かわないと、やらなかった時に後悔すると思って取り組みました」。逃げるのは簡単だけど、逃げてしまったら何年後かに必ず後悔する。そうなりたくはなかった。
心折れそうな中で手本となっていたのは、野球部の助監督だった奈良隆章さんの存在だ。常にストイック、行動のすべてに隙がなかった。「先生を見てると、まだまだできることはあるなと思い知らされました」。野球でも日常生活でも、隙を見せると怒られていたが、そこには常に筋が通っており「奈良さんに言われたら仕方がないな」と思わせられた。そして寺田さんは野球にさらに本気に取り組むようになっていった。細かった体を大きくするために、たくさん食べるのは得意ではなかったため、夜食で毎日お餅を食べたりもしていた。
試合に出られなくても、「自分がうまくなるためには何ができるか」と考え、ほとんど自ら考えてトレーニングに取り組んだ。寺田さんがとくにこだわったのは、球速を上げることだ。短いダッシュやジャンプ系のトレーニングを繰り返し、大学入学当初は130km台前半だった球速は、4年生を迎える頃には142kmまでになっていた。