就職の内定を断って進んだ独立リーグ、ついに花開いた素質 寺田光輝2
筑波大学からBCリーグ・石川ミリオンスターズに進み、横浜DeNAベイスターズで2年間プレーした寺田光輝(こうき)さん(29)。引退後、東海大医学部に合格し、9月から医師になるために本格的に勉強をはじめます。野球と医者、2つの道を極めようとしている寺田さんはどんな道を歩んできたのか。「4years.のつづき」3回連載の2回目は、大学卒業後も野球を続けようと決めたことについてです。
ラストイヤーの手応えと恩師の後押し
寺田さんが公式戦で初めて投げたのは4年生の春だ。首都大学リーグの東京経済大戦にリリーフとして登板。その時のことはよく覚えている。「4年間続けていても試合に出られずに終わる学生もたくさんいる中で、試合に出られたのはすごくうれしかったです。でも緊張がすごくて。スタンドからの応援もすごく聞こえました」。初めての登板は1イニング目は全員ショートゴロ、2イニング目も無失点で抑えた。この後も何度か中継ぎで登板したが、その後は失点するなど、なかなか思うようにはいかなかった。
就職活動も終えて、地元の銀行に内定も得た状態で4年生の秋のラストシーズンを迎えた。中継ぎとしてたびたび登板したが、春とは違い1点も取られることはなかった。まだもうちょっとできるのかな……そんな思いが寺田さんの心をよぎった。その気持ちを熱く後押ししたのは、当時助監督として寺田さんを指導していた奈良隆章さんだった。「奈良先生に、『野球をやれ!』『お前は本当にいいものを持ってるから、絶対続けろ!』と言っていただいたんです」。折に触れて寺田さんに声をかけてくれるなど、応援してくれていた奈良さんの熱意が、寺田さんの気持ちに変化をもたらしていた。
「後悔したくない」今しかできないことを
「心のどこかで、結果が出ていた分やめるのはもったいないな、と思っている自分もいたんです。だけど、今すぐプロになれるかといったら、それはキツイ。でも野球は続けたい。どうしようかな……という気持ちが一番大きかったです」。最終的に野球を続けると決め、独立リーグであるBCリーグの石川ミリオンスターズに入団することになった。内定先には断りの連絡を入れた。決断した理由を寺田さんはこう話す。
「野球を続けなかったら、あとから後悔しても取り返しがつかないなと思ったんです。スポーツに打ち込むなら、若いときのほうがいい。就職先は決まっていましたが、『どうしても銀行員になりたい』というわけではなかったので。仕事のことは、野球が終わってから考えても遅くないだろう、と思ったんです」。卒業したあとに奈良さんになぜ野球を続けろと言ってくれたんですか、と聞いてみると「お前はずっと本気だったから」と言われたのだそうだ。「僕から見たら、僕より本気の人もいたとは思うんですけど……先生の目にはそううつっていたのかなと思います」
「やりきったほうが次につながる」
奈良さんに当時の話を伺うと、入学当初から寺田さんのことを気にしていたのだという。「新入生を対象とした個人面談を行った時に、寺田はすごくキラキラした目で『プロ野球選手になりたいです』といい切ったんです。その時点では正直、同級生でもっとうまい選手もいたし、実力がずば抜けていたわけではなかった。けれど彼は苦労しながらも、4年間行動し続けたんです。日頃の生活や何気ない言動などもそうですし、『本気度』って小さなところに現れると思います」
奈良さんから見ていても寺田さんはどんどん成長し、4年生になってようやく出場機会をつかんだ。「その姿を見ていたら、『やりきった』と思えるところまでやったほうが、彼が野球を終えたあとの人生にも役に立つ、次につながると思ったんです」。だがそのように話したからといって、内定をもらっている会社に断りを入れ、保証もない未来に飛び込むのはなかなかできることではない。「よく決断して、頑張ったなと思います。あまり外には出さないけど、彼は信念を持っていて曲げないところは曲げないなと感じていました」。奈良さんは寺田さんの「やりきる力」を高く評価していた。
クローザーとして活躍、一躍ドラフト候補に
三重からつくば、そして金沢へ。行くのは初めてだったが、「いい街だな」という第一印象を受けた。独立リーグはNPBを目指すための場でもあり、NPBのチームを解雇になった選手が再度返り咲きを目指してプレーする場でもある。「前に行くためでもあり、逆に野球を諦めるための場所でもあるな、敗者復活戦の会場だな、と感じました」
実際に入団してみると、レベルの高いピッチャーがゴロゴロいる環境。150km近い球を投げる選手もいて、1日目で「勝てないな」と感じてしまった。それでもなんとか工夫を重ね、それまでオーバーハンドで投げていたフォームをサイドスローに変えた。「とにかく浅尾さんに憧れていたので、オーバーハンドで投げたかったというのがあったんです。でもサイドスローは、もともと僕の体の使い方が向いている投げ方でした」。大学時代にこだわってきた球速はサイドスローにすることによって落ちたが、寺田さんはクローザーとして起用された。全40試合に登板し、3勝1敗19セーブ、防御率1.11の好成績。だが寺田さんは「結果は出てたけど守備が守ってくれたりしたのもあり、僕だけ(がすごい)って感じはしなかったです」という。「チームが勝てば、今日も良かったなという気持ちで過ごしていました」
大学時代まではまったくの無名と言ってよかった寺田さんだが、BCリーグでの活躍で徐々に注目が集まるようになってきた。ドラフト候補を特集した記事に名前があがったり、実際にNPBの球団からの接触もあった。「意外ともしかしたら、可能性があるのかもしれない」と考え始めていたが、2016年秋のドラフトで寺田さんの名前が呼ばれることはなかった。
この年、石川からは大村孟(はじめ)が東京ヤクルトスワローズから、安江嘉純(よしずみ)が千葉ロッテマリーンズから、坂本一将がオリックス・バファローズから、それぞれ育成ドラフトで指名された。さらにこの年は三家和真が千葉ロッテと、アウディ・シリアコが横浜DeNAと契約を交わした。目の前で身近な人がドラフトに指名されて感じたのは、悔しさよりもうれしさだ。自分が指名されないことよりも、一緒にプレーした仲間の活躍がうれしく感じていた。
だが1人になると、「自分はこれからどうするのか」と考え込んでしまった。来年は25歳になり、2年目でドラフトにかからなかったら年齢的にも厳しいだろうと思われた。思い悩んだせいなのか、体調も崩した。「いったんは区切りをつけて野球をやめるか迷ったんですが、2年目も独立リーグでプレーしようかなと。でもそう決めるまで、気持ちの切り替えが少し難しかったです。最終的には、やらないで後悔するよりはやっちゃえ、という気持ちでした」。これが本当のラストチャンスだ。そう決めてもう一度野球に向き合った。
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プロ野球・横浜DeNAベイスターズからの指名と、あっという間に終わったプロ生活、そして医学部受験について語った最終回はこちら!