驚きの指名からあっという間に終わったプロ生活、いま医学の道に進む 寺田光輝3
筑波大学からBCリーグ・石川ミリオンスターズに進み、横浜DeNAベイスターズで2年間プレーした寺田光輝さん(29)。引退後、東海大医学部に合格し、9月から医師になるために本格的に勉強をはじめます。野球と医者、2つの道を極めようとしている寺田さんはどんな道を歩んできたのか。「4years.のつづき」3回連載の最終回は、プロ入りして感じたこと、そして医師の道に進むと決め合格をつかむまでです。
ラストチャンスの2年目、驚きの6位指名
BCリーグ・石川ミリオンスターズ2年目には35試合に登板し、0勝3敗10セーブ、防御率2.41。成績だけを見ると1年目の方がよく見えるが、ボール自体は前年より良くなっているという手応えがあり、「これでプロに行けないんだったら、もう無理だな」という気持ちがあった。
そして2017年10月26日。選手たちは集まり、ドラフトの中継を見ていた。その様子はネットでも中継されていた。育成で指名されてくれれば御の字。そんな気持ちで待っていた6巡目。
「横浜DeNAベイスターズ 寺田光輝 投手 石川ミリオンスターズ」
チームメートには寺岡寛治がおり、17年にはセットアッパーとして43試合に登板、防御率1.52の成績を残していた。当然彼が先に指名されると思いこんでいた寺田さんは、「えっ」という顔をしたのち、キョロキョロと周りを見渡して不安そうな表情を浮かべた。「てっきり指名されたのは寺岡だと思っていたので、『俺か!』って思いました。ベイスターズからはドラフトの調査書も来ていなかったので、本当に寺岡との間違いなんじゃないか? と思いました。数日後に進藤達哉GM補佐(当時)が挨拶に来てくださって、やっと本当なんだな、と実感しました」
会見を終わってスマホを見ると、ものすごい数のLINEが届いていた。一気に名前が全国区になり、格段に注目度合いも上がった。「プロになりたい」と考えてから8年。ずっと考えてはいたが、現実味のない目標だった。BCリーグの1年目からやっと、「プロ」が手に届きそうというところになってきたと実感できてきていた。「だから、指名されただけでもありがたすぎる経験だったな、と本当に今でも思います」
「やばすぎた」プロの世界
実際に入ってみたプロの世界は、「すごかったです」と振り返る。「東(克樹、ドラフト1位、立命館)が同期なんですけど、キャッチボールした時に『ちょっとやばいな……』って思って。齋藤(俊介、ドラフト4位、JX-ENEOS)とブルペンで並んで投げてるときにも『ちょっとやばいな……』と。梶谷さん(隆幸、現読売ジャイアンツ)が目の前でプレーしてて、『やばすぎ!』と思いました。それまでテレビでしか見たことなかったプロ野球のレベルを、実際目の当たりにしてドン引きしてしまいました。大学の時の衝撃とは比べ物にならないです。この世界で勝ち抜いていかないといけないのかと……」
2軍戦で登板したが、簡単に打たれてしまう。自分の武器はなんだろう?と考え、迷い、焦ってトレーニングをして、他の人よりやらなきゃ、という思いが先に立ちすぎて、やりすぎてけがをしてしまう、という悪循環にはまりこんでしまった。8月には椎間板ヘルニアの手術も受けた。
戦力外にも「清々しい気持ち」
プロ2年目、沖縄キャンプでは手応えを感じられた。今年こそ、と思って横浜に戻ったところ、沖縄との寒暖差が大きく、寒さにやられて肩の調子がおかしくなってしまった。結局この年はイースタン・リーグで18試合に登板したが、一度狂った調子を戻すことができず、1勝を挙げるのみにとどまった。そして10月には戦力外通告を受けた。
「独立リーグから行った選手は、だいたい2年勝負と言われてるんです。自分の年齢も考えて、そこはわかっていました。だから戦力外だと言われた時に、まあそうだよねと……。でも後悔を残さないようにと、自分の中ではこれでもかというぐらい野球に向き合えたので。清々しい気持ちでした」。あっという間の2年間だったが、もう後悔はない。11月の合同トライアウトに参加したものの、それを区切りとして寺田さんの野球人生は幕を閉じた。
勉強をつづけ、一つひとつ前に
野球はやりきった。そう胸を張って言える寺田さんの次の選択肢に浮かび上がってきたのは「医者」だった。医者一家に生まれたゆえ、やはり「野球か医者か」という思いはずっとあった。本気で野球をやりきったので、今度は本気で医者を目指すことに決めた。しかし筑波大学卒業時は銀行に内定していたということは、野球を続けてプロ野球選手になっていなかったら、医者の道にはすすまなかったのかもしれないですね。ここまで話を聞いていて思わずそう口にすると、寺田さんも「本当にそうだと思います」と答えてくれた。
高校の時と、大学に入ってからも一時期医学部を目指していたので、まずは勉強の仕方を「思い出す」作業から始まった。いざ目指すと決めて自分のレベルを確認した時に、当たり前ではあるが合格ラインに全く到達していなかった。「絶望感がまずありましたし、果てしなさも感じました。それでも一つひとつやっていくしかないなと思いました」。だが勉強することは辛いとは感じなかった。
記憶力は10代の頃とは変わっていないと思えたが、どうしても年齢からくる焦りはあった。「時間との戦いだなと思いました。去年の段階では、どこを受けても絶対に無理という状況だったので」。進学塾で自らも学び、アルバイトをしながら毎日、日によっては8時間ほども勉強するという生活を続けた。周りは高校生ばかりという環境だが、みんな気さくに話しかけてくるといい、「なめられてるんですよ」と笑う。
本当は国公立の医学部に行きたいと考えていたが、学力を考えると5~6年勉強しないと難しいのではという判断で、今年の夏に東海大学医学部の編入試験を受けた。東海大医学部には多様な人材を確保したいという理念があり、試験では学力のみならずいままでの経歴を見てくれる。「面接まで行けたら差別化できるかなと思った」という狙い通り、見事合格をつかみとった。1年生の後期からの入学となり、秋からは医学生としての道を歩みはじめる。
やっと道が定まった
「フラフラしてた人生なので、やっとひとつ道が定まった感じがします。今後変わることはないかなと。やっと落ち着くかなという安心感があります」。寺田さんは今の心境をそう語る。まだ気が早いが、何科の医者になりたいのか考えていますか、と尋ねると「実家が内科で、でも自分はけがが多かったので、整形外科にも興味があります。内科と外科の垣根を取っていきたいなと思っています」という。スポーツのけがの要因を見ていくと、外傷だけでなく内科的要因もあると実感していたからだ。自らの経験を生かしていけるような医者になりたいと将来を語る。
思いっきり進路に迷った寺田さんから、もし今迷っている人に対してアドバイスをするとしたら。「後悔だけはしないようにしてほしいと思います。『諦めなければ夢は叶(かな)う』とか、そういうものでもないと思います。全力を費やして芽が出なくても、良かったといえるまで頑張ってほしいなと。人生をかけて全力を尽くす価値のあるものを早く見つけられるといいよね、と思います」。思えば寺田さんは、節目節目で「後悔をしないように」という選択を取り続けてきた。「誰かの意見を聞くのも大事ですが、最終的に決めるのは自分です。環境が許す限り、信じた道を進んでほしいなと思います」
迷いに迷い、何度も心折れそうになりながらも、自分の道を見つけた寺田さん。新しい出発はすぐそこに迫っている。