3度目のJリーガーへ、18歳磐田から始まった挑戦 クリアソン新宿FW岡本達也1
働きながら3度目のJリーガーを見据える選手がいる。サッカーチーム「クリアソン新宿」のFW岡本達也(35)。磐田ユースから昇格してJリーガーになり、順天堂大学を経て再びプロになった経歴も珍しいが、岡本はさらに株式会社Criacao(クリアソン)で学生のキャリア支援などを手がけながら挑み続ける。今季チームは関東リーグ1部で初優勝、岡本はチームトップの12得点(22試合)を決めた。11月12日からはJ3の一つ下のJFL昇格をかけた戦いが待つ。衰え知らずのストライカーの異色の歩みを連載「4years.のつづき」で3回にわけてお届けする。
進学校と磐田ユース
静岡県浜松市出身の岡本は幼稚園児の時から地元のチームに入り、サッカーに親しんできた。小学3年生からジュビロ磐田のスクールへ。最初はサッカーの技術がどんどんうまくなっていくことで競技にのめり込んだが、次第に違う面白さもみつかった。岡本は決して足が速い少年ではなかったが、「陸上競技で活躍できなくても、サッカーでは活躍できる。自分は身体能力が高くはなかったが、自分に足りないものを他の選手に補ってもらい、補完し合ってチームで強くなっていけた。サッカーにはいろんな方法があり、そういう感覚が楽しかった」と振り返る。
サッカーどころの静岡では、全国高校選手権県大会の1、2回戦でもテレビ中継があるなど高校サッカーの人気も高かった。サッカーの名門校かJリーグのユースか。岡本はプロへより早く近づけるのはどちらかを考え磐田ユースへ進んだ。
全寮制で同期のほとんどはサッカーに理解のある近くの私立高校へ通う中、岡本は県立進学校の磐田南高で学んだ。起床後、みんなで朝食をとった後、一人だけ自転車で磐田南高へ。授業が終わると直接グラウンドへ向かい1時間ほどシュートなどの自主練習をした。そこから、全体練習に参加し寮に戻るようなユース時代の生活だった。高校では必修クラブの音楽鑑賞部に所属し勉強中心の生活だった。ユースの活動は、学校の部活動のように試験休みなどはなかったが、「中学生の時もそうでしたし、いくつかのタスクを並行してやり、一定の成果を出すということは、割と染みついていました。成績がよかったということはないですが、最低限はやっていました」。
磐田ユースで3年間鍛えられたが、高校卒業後にトップチームとプロ契約できるかどうかは、本人たちにも最後の最後まで知らされなかった。トップチームの練習に呼ばれることもあり、可能性はあると思えた。例年、ユースから上がれるのは数人で、チームの補強状況や予算の関係でゼロの年も珍しくなかった。だからと言って、その時の岡本にはダメだった時に大学に行ってサッカーを、という考えはなかった。岡本が高校3年になった2004年度の磐田ユースは強かった。日本クラブユース選手権と高円宮杯全日本ユース選手権はともに準優勝。岡本個人としては国体少年男子で静岡県のメンバーとして優勝に貢献した。
6人一緒にプロへ、20歳の衝撃
結局、磐田ユースから大量6人が昇格することになった。同期のGK八田直樹は今も磐田に所属している。プロになると不思議な感覚が待っていた。「やっていることは変わらないのに、お金が入り出す。高卒でいきなり毎月数十万円が振り込まれる。訳わからないですよ」。寮も4人部屋から1人部屋になった。一つ目標だったところにはたどりつけた。「今振り返ると、ちょっとプロになったことで満足していた。『ただのスタート地点』と自分に言い聞かせていたが、甘かった」
中山雅史(現コーチ)ら日本代表に名を連ねる選手と毎日一緒に練習するようになり、大きな刺激を受けた。「すごく上手なんです。当時の自分からすると遠過ぎて、競争相手と見られなかった。この人たちがいつかいなくなったら自分が試合に出られるのではないか。今すぐ何とか超えられないか、そういう思考でやれてなかった」
2年目のシーズン終盤、ショックのあまり記憶の一部が飛ぶような出来事が待っていた。「来年の年俸が書いてある紙を渡されました。そこに0円と。二十歳の若者には衝撃的でした」。結果を出していなかったので、理由も聞けなかった。「もう、クビなんだと。端から見たら当然ですが、ショック過ぎて人生終わったなと思った」。磐田での出場は1年目の天皇杯5回戦と準々決勝の2試合だった。打てたシュートは1本。Jリーグの公式戦には出場できなかった。
岡本が特別なケースではない。公式戦に出られず若くしてチームを去る選手は珍しくない。「あのまま下を向いて人生を歩くわけにはいかなかった」
自らを奮い立たせるように岡本が向かったのは母校の磐田南高校だった。