サッカー

連載:4years.のつづき

3度目のJリーガーへ、順天堂大の経験が今に生きる クリアソン新宿FW岡本達也2

順天堂大の経験が仕事とクリアソン新宿のプレーに生きているという((c)2021 Criacao)

働きながら3度目のJリーガーを見据えるクリアソン新宿のFW岡本達也(35)がジュビロ磐田から戦力外通告を受けたのは二十歳の冬、カテゴリーを下げればプロで続けられる可能性はあったが、岡本が目指したのは順天堂大学だった。株式会社Criacao(クリアソン)で学生のキャリア支援などをしながら関東リーグ1部初制覇に貢献した衰え知らずのストライカー。3回連載の2回目は「2浪」して入った大学でみえたものです。

3度目のJリーガーへ、18歳磐田から始まった挑戦 クリアソン新宿FW岡本達也1

2カ月足らずの受験勉強

来季の年俸「0円」と書かれた紙をみせられた岡本は相当なショックを受けた。

「2年間を自分の中で振り返った時、うまくいかなかったのって自分に理由があるな、とすごく感じた。試合に出られない、思い描いたようにならなかったことを結構、周りのせいにしていた。日本代表選手ばかりだからしょうがないよなとか。結局、2年間で全然、成長していなかった、何も変わってないことを痛感した」

変えるべきは環境ではなく、自分自身だと腑(ふ)に落ちた。いろんな人たちと話し、「もう1回チャレンジと考えた時に、大学はいいなと思えた」。プロ経験など関係なく、4年間で成長して、また勝負するというのがしっくりきた。

目標を順天堂大にしたのは、大学サッカーのレベルは関東が高かったこと、父が教員でもあり、教員免許が取得できたこと。そして、受験科目が3科目だった。2006年12月、母校の磐田南高へ向かい、かつて教わった3科目の先生に頭を下げた。「形にしたいので力を貸してください」。入試の過去問題を集めた「赤本」などで猛勉強に入った。プロの2年間は勉強とは無縁だった。「落ちていたらどうしたんですかね」。順大スポーツ健康科学部しか受験しなかったが、2カ月足らずの受験勉強でサクラが咲いた。

順天堂大時代の岡本(撮影・有田憲一)

「2浪」した形でサッカー部に入った同期は岡本だけだった。当然、周囲からは「元プロ」という見方もされた。「変なプライドを捨てたくて大学にいく選択をしたのに、最初は出て来るんです。そういうものと葛藤しながら小さな自分をどんどん脱ぎ捨てていった感じ。新人の中にも『自分はどこどこ高校出身、高校の時はこんな成果を出した』など、そういうことに意識がある選手は伸びない。成長する人、成果を出せる人は目の前のこと、その瞬間にただただ没頭できる人だと思う」

順大サッカー部の学年ごとの壁がないフラットな雰囲気にも助けられた。1年生から活躍し、関東大学リーグでは「オールドルーキー」として新人賞を獲得した。勝ち進んだ天皇杯全日本選手権では4回戦で古巣のジュビロ磐田と対戦。6-1で敗れたが、ヤマハスタジアムで前半23分に決めた一時同点となるゴールは、サッカーの神様からのプレゼントに思えた。

07年の天皇杯で古巣の磐田に敗れた後、あいさつする岡本(提供・順大スポーツ編集部)

当初は大学サッカーに違和感もあった。磐田ユースではサッカーの技術を磨くため、成長の仕方を選手に当てはめてくれるような与えられる環境だった。プロでは厳しい競争が待っていた。順大の当時の吉村雅文監督(現スポーツ健康科学部長)はサッカーの指導というより、人を育てることに重点を置いていた。

「順天堂でしかできないことって何だろうと学生と常に考えていた。もちろん勝たないといけないが、他にできることを選手がたくさん考えてくれた。自分たちで集客したり、地域の活動をしたり」と吉村前監督。もう1回プロになりたいと思っていた岡本にはサッカーのことは細かく言われず、練習や組織を自分たちで考えるスタイルが最初のうちはストレスでもあった。

プロとは違う喜び

それが変化していった。「自分で成長していかなくてはいけない。やっていくとすごく面白かった。自分たちで練習を考えて、イベントを企画して、成功をみんなで喜んで。プロの時とは違う喜び、感動を生み出せる。クリアソンで働いてサッカーをしている今に結びついている」

閑散とした風景も珍しくなかったリーグ戦に3000人以上を集めた。小学生のチームと一緒に合宿をしたり、高齢者向けに運動教室をやったり。順大ではタイトルに届かなかった。2部降格も味わった。3年生の時、2部では得点王とアシスト王になり1年で1部へ戻った。酸いも甘いも全ての経験が岡本を成長させた。

吉村前監督が振り返る。「ストイックでめちゃくちゃ厳しい、自分にも人にも。でも、めちゃ温かい。それがちゃんと伝わる。練習ではけんかになるくらい一生懸命。でも一緒に飯を食べにいき、議論に変えていける。(岡本)達也の一番の特徴です。今でも鮮明に覚えています」

岡本は部活と仲間としっかり向き合い、4年間かけて重い鎧(よろい)、余計なものを脱ぎ捨てていった。吉村前監督は「4年間ずっとスポーツ科学科で一番の成績を取った学生は、サッカー部ではなかなかいない」とも明かしてくれた。

卒業を控え、声をかけてくれたのはJ2の水戸ホーリーホックだった。

【続きはこちら】仕事もサッカーも本気だから

4years.のつづき

in Additionあわせて読みたい