陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

箱根駅伝にあこがれ、「君は青学顔だね」と勧誘されて青山学院大へ 安藤悠哉1

大学駅伝史上初の「三冠・三連覇」を達成した青山学院大。その時のキャプテンが安藤さんだ(撮影・齋藤大輔)

大学時代を経てさまざまな分野で活躍される方のお話をうかがう連載「4years.のつづき」。今回は、青山学院大学が大学駅伝史上初めて三冠・三連覇を達成したときの主将、安藤悠哉さん(27)です。4回連載の初回は、陸上を始めたときのことから高校時代、そして青山学院大に入学したときのことです。

強豪・豊川工からの勧誘に「飛び込んでみよう」

愛知県豊橋市出身の安藤さんは、幼い頃からテレビで箱根駅伝を見ていた。「あこがれというか、かっこいいなと思って、たぶん小学生ぐらいから走り始めたと思います」。当時は早稲田大学で竹澤健介さん(現・大阪経済大学ヘッドコーチ)が活躍していた頃だった。「走りもかっこいいし、あんなふうに走ってみたいなと漠然と思っていました」。中学で陸上部に入部し、本格的に陸上に取り組むようになった。

「特に足は速くなかったです」というが、長距離は短距離に比べ、努力次第で伸びるだろうな、という気持ちは安藤さんの中にあった。タイムが遅いから嫌になるということも一切なく、少し練習しただけで記録が伸びたり、チームメートに勝てたりするのがうれしかった。

とはいえ、安藤さんは県内でも無名の選手だった。中学3年のときの県駅伝で強い選手がひしめく中で1区を走り、区間上位に入ったことで転機が訪れた。豊川工業高校の当時の監督が安藤さんの走りを見て、「伸びそうだ」と声をかけてくれたのだ。「中学は特別、陸上を強化していた学校ではなかったので、それも込みで見てくれたんだと思います」。このとき安藤さんはすでに違う学校に行こうとほぼ心を決めていたが、県トップの学校から声をかけられて、目標の箱根駅伝に近づくためにそこに飛び込んでみよう!と決めた。

やればやっただけ伸びる。長距離の可能性と面白さを感じていた(撮影・齋藤大輔)

豊川工業高校に入学してまず感じたのは、レベルの高さだ。「1年生のときは練習についていくのが精一杯でした」という安藤さん。まずは先輩や、周りの実力ある選手たちのトレーニングやストレッチなどを真似をすることから始めた。中学時代に追い込んで練習していたわけではなかったので、その分伸びしろも大きく、やればやっただけ記録も伸びてきた。

全国を経験、「自分ももっと活躍したい」

2年生の時には3000mSCで初めてインターハイにも出場することができた。周りには陸上雑誌でも名前を見るようなトップ選手たち。「すごく興奮したのを覚えてます。このインターハイが、全国で活躍したいなと思うきっかけになりました」と思い返す。この時は決勝まで進み、10位。ちなみに同じレースで5位に入ったのは、服部弾馬(豊川~東洋大~トーエネック)だった。「3障の中でもまだまだだと思いましたし、花形である5000mにはもっと強い選手が出場していて、もっと頑張らなきゃな、という気持ちになりました」

全国の舞台に出たことにより、競技にもいっそう身が入り、秋の5000m記録会では14分13秒10の自己ベスト。「この時すごくうれしかったのもあって、他の記録は覚えてないですけど、これはコンマまで今でも覚えてますね」と笑う安藤さん。全国の同学年の中でもベストタイムランキングが20位になり、「自分もやれる」という自信が大きくなった。この年、チームは全国高校駅伝に出場し、安藤さんは6区を走り区間3位。チームの6位入賞にも貢献した。走力を伸ばすことによって周りの信頼も得られてきて、3年生のときは主将を務めることになった。

豊川工では練習も生活も厳しかったが、実力を伸ばしかけがえのない仲間も得た(写真は本人提供)

2年生のおわりの3月に出場した春の高校伊那駅伝で、安藤さんに出会いが待っていた。青山学院大学の原晋監督に話しかけられたのだ。「『君は青学顔だね』と言われました(笑)。ありがとうございます、と返したら、リストを見せられたんです」。それは当時、青山学院大が獲得したいと思っていた選手の名前とタイムが記載されたリストだった。安藤さんの名前は、その一番上にあった。「『一番上だよ君は』と言われて、高校生だったから本当にうれしかったです。高校が厳しかったのもあって、大学では明るい雰囲気のところに行きたいと思っていたので、すぐ決めました」

青学への進学も決まり、主将として臨んだ高3時は、調子がなかなか上がらなかった。高2のときに出した5000mの自己ベストも更新できず、インターハイも5000mの県大会で予選落ち。主将の重圧を感じていたわけではない、とは言うが、伸び悩み悔しい結果に終わってしまった。だが、練習でも私生活でも厳しさがあった分、選手同士の結束は強かった。「弱かった自分がこのチームに入って力をつけられたので、環境や一緒に走る仲間の大事さを感じました」。「箱根駅伝を走る」夢に近づけた高校3年間だった。

けが続きの1年目、「正直腐ってた」

愛知から東京へ。青山学院大に入学するために上京してきた安藤さんは「正直浮かれてた記憶しかないです」と当時のことを思い返す。一色恭志(現・GMOアスリーツ)や秋山雄飛(現・中国電力)など同期は15人程度。1学年上には小椋裕介(現・ヤクルト)、神野大地(現・セルソース)、久保田和真(九電工~引退)、橋本崚(現・GMOアスリーツ)などのメンバーがいた。

「君は青学顔だね」と勧誘された選手は何人いたのだろうか…?(写真は本人提供)

新生活への不安はなく、新しい生活へのワクワク感だけがあった。だが、練習のレベルは大学に入ってまたグンと上がった。特につらかったのが、町田の寮からグラウンドのある淵野辺キャンパスまで、往復10km走らなければいけなかったことだ。「本練習の距離以外にアップダウンのある道を10kmも走るのか、というのが、高校生上がりの身からしたら抵抗がありました。高校生の時は本練習で10kmという感じだったのもあって……。練習が終わったら疲れすぎていて、歩いて帰ったこともありました」。他の大学の選手と話していても、青学の練習量は多いとわかった。だが練習を積んでいくうちに徐々に慣れ、往復も苦にならなくなってきた。しかし安藤さんの大学1年目は、けがに悩まされた1年だった。

練習量が増えたことでトラックシーズンの序盤からまずけがをしてしまい、新入生が出る記録会にも出られなかった。仙骨の疲労骨折やねんざなど、治ったと思ったらまた別の場所をけがするといった悪循環が続き、まったく走れない時期もあった。ケアをしていたつもりだが、足りなかったのかもしれないと振り返る安藤さん。

「ちょっとここでは言えないようなこともしました」と笑う安藤さん(撮影・齋藤大輔)

実は高校時代は一度もけがをしたことがなく、ケガをしないことが自らのストロングポイントだと思っていたが、それもなくなってしまった。「自分の強みはなんなんだろう、と戸惑いました。練習したとしてもCチームやDチームで、正直1年目は諦めていたし……とにかくめちゃくちゃ腐ってましたね」と苦笑いする。

そんな安藤さんの気持ちを変えたのは、高校時代の仲間の活躍だった。

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次回は明日公開です。

4years.のつづき

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