陸上・駅伝

連載:4years.のつづき

勝ち取った箱根駅伝メンバー、青学初優勝のゴールテープを切り時の人に 安藤悠哉2

箱根駅伝を走る夢がかない、さらに青学初優勝のゴールテープを切る。最高の瞬間だった(撮影・朝日新聞社)

大学時代を経てさまざまな分野で活躍される方のお話をうかがう連載「4years.のつづき」。今回は、青山学院大学が大学駅伝史上初めて三冠・三連覇を達成したときの主将、安藤悠哉さん(27)です。4回連載の2回目は、2年生のときに箱根駅伝のメンバーに選ばれ、青山学院大の初優勝のゴールテープを切るまでに努力したことについてです。

高校のチームメートの活躍でスイッチが入った

ルーキーイヤーにはけが続き、満足に走ることもできず「正直、腐っていた」という安藤さん。対して、同学年の一色恭志(現・GMOアスリーツ)は出雲駅伝からメンバーに選ばれ3区で区間7位。全日本大学駅伝1区、箱根駅伝1区でも出走していた。一色との力の差は自覚していたという安藤さんは、「彼は別格」だと思っていたのでその差はしかたがないと思っていた。

だが箱根駅伝で、同じ高校でともに練習を積んできたチームメートで、早稲田大学に進んだ平和真(現・カネボウ)が4区で区間2位と好走しているのを見た。「彼も僕と同じように中学の時はそこまで有名ではなくて、高校で伸びた選手でした。一緒に頑張っていた彼が活躍してるのを見て、『自分は何やってるんだろう』ってそこで思いました」。このままだめだったら、ずるずると4年間終わってしまう。それだけは嫌だ。2年生になる前に安藤さんの心にスイッチが入った。

 スイッチを入れた、とはいえすぐにけがが治るわけでもない。ようやく2年生の6月ぐらいから、安藤さんは継続して練習を積めるようになってきており、続く夏合宿もすべての練習をこなすことができた。過去のチームを見ても、夏合宿をしっかりと消化できた選手は、秋以降に結果が出てくるというデータが出てきていた。そのため原晋監督は選手たちに「夏合宿をしっかりこなすことが第一ステップだ」と都度声をかけていた。

「どうしたら箱根駅伝を走れるか」。とにかくそこを考え抜き、集中して練習に取り組んだ(撮影・齋藤大輔)

安藤さんはその第一ステップをクリア。合宿明けの10月の世田谷記録会5000mで、14分07秒66と高校2年以来の自己ベストを更新することができ、自分でも手応えを感じられた。調子も上がっていたため、出雲駅伝、全日本大学駅伝のメンバーに選ばれたが、出走までは至らなかった。「ちょっと夏走れて上がってきたとはいえ、トラックシーズンの実績はゼロだし、信頼もないし、出走するにはひと押しが足りなかったんだと思います。でも箱根駅伝はどうしても走りたかったので、走るためにはどうしたらいいか考えて練習をしていました」

 日々集中し、もぎ取ったチャンス

1年間チームを見てきて、どういう選手が箱根駅伝に選ばれて走るのかがわかってきていた。当時だと、全日本大学駅伝のあとにある世田谷ハーフマラソンと、毎年11月23日前後にある関東学連主催の10000m記録挑戦競技会、この2つをまずしっかり上位で走ること。なおかつ、日頃の練習で大きく外さず、コンスタントに結果を出し続けることだ。安藤さんは世田谷ハーフマラソンでは1時間4分33秒の自己ベストで6位、学連記録会でも設定タイムトップの組で29分12秒07の自己ベスト。12月の箱根駅伝前の選抜メンバーでの合宿にも選ばれた。

世田谷246ハーフマラソンは、青学の箱根駅伝のメンバー選考にとって重要な大会となっている(写真は本人提供)

ここまで連戦、そして練習が続くため、選抜メンバーに選ばれてもけがをしてしまう選手もいた。「そうならないように、日々集中して一つも外さないように。とにかく集中して、チャンスをもぎ取ったという感じです」。その言葉通り、翌年1月3日、安藤さんの姿は鶴見中継所にあった。

10区、アンカー。安藤さんは自分の実力とチームの状態を考えたときに、「入り込めるとしたらそこしかないな」と考えていたため、区間配置は想定通りだった。前年5位だった青山学院大学は戦力も充実し「優勝」を目標に掲げていたが、正直なところ、チーム内では3位以内を目標としよう、とまとまっていたのだという。しかし、5区で神野大地(現・セルソース)が驚異的なペースで駒澤大学を抜き去り、青学史上初の往路優勝。復路でも一度も先頭を譲ることなく、むしろ後続との差はどんどん開いていった。安藤さんに襷(たすき)がわたったときには、2位の駒澤大とは9分56秒の大差がついていた。初めての大舞台、夢に見た箱根駅伝。プレッシャーはまったくなく、「箱根駅伝を走りたい」という夢がかない、ただただうれしかった。

走っている間、観客が途切れることはない。キツイけと楽しい23kmだった(写真は本人提供)

とにかくメンバーに選ばれるために集中し続けてきた安藤さんは、正直なところ、当日の調子はあまり良くなかったのだという。「ピークが手前に来てしまって」と笑い、キツかったと思い返すが、それも楽しいとも感じられた。鶴見中継所から大手町のゴールまで23km、沿道の声援は途切れることがなく、ずっと左耳が耳鳴りしているような状態だった。安藤さんは笑顔でゴールテープを切り、青山学院大は史上初の箱根駅伝総合優勝を成し遂げた。

 一夜にして周りが変わった「箱根ドリーム」

箱根駅伝で優勝し、しかもゴールテープを切る瞬間がさまざまな写真や映像となって世の中にあふれ、安藤さんは一躍注目される存在となった。レースの翌日は優勝メンバーそろって、日本テレビの「シューイチ」にも出演。大学でも今までは「スポーツ推薦で来て勉強はあまりしてない人たち」という目線で見られていたのが、「箱根で活躍しているすごい人たち」に変わった。話しかけられたり、一緒に写真を撮ってくださいと頼まれたり……。「人生であんなに注目されたことはないと思います。まさに、『箱根ドリーム』だったと思います」と笑う。

優勝の翌日には「シューイチ」に出演。世界が変わり、まさに「箱根ドリーム」だった(写真は本人提供)

箱根駅伝を走れたことで、安藤さんの心には余裕が生まれ、「主力になろう」という意識が生まれてきた。2年生の時まではけがで出場もかなわなかった春夏のトラックシーズン。そこで結果を出そうと努力し、関東インカレの10000mにもチーム代表として選ばれた。夏合宿もすべてこなしたが、合宿が終わってから足に軽い痛みを感じた。「1~2週間ぐらい休んだら、調子が全然上がらなくなってしまって。歯車が狂って、全然走れなくなってしまいました」。特にどこをけがしているというわけではなく「純粋に力不足」と振り返った。この年、3大駅伝のメンバーに選ばれることはなかった。

しんどい気持ちのときに励ましてくれたのは、チームメート達だった。「部員全体を考えたら、駅伝を走れない選手の方が多いんです。2年生の時はメンバーに選ばれて、箱根を走れて浮かれてたんですけど、メンバー落ちすることで『こういう思いをしてる選手がいっぱいいるんだ』と改めて感じることもできました」

3年生の終わりが近づくと、選手間で主将を決める話し合いが行われる。そこで安藤さんは、自分が主将をやろうと考えていた。

***

続きは明日公開です。

4years.のつづき

in Additionあわせて読みたい