サッカー

連載:監督として生きる

早大一択で受験、求めていたサッカー像を見た 早稲田・福田あや監督1

福田さんは昨年、母校・早稲田大ア式蹴球部女子部の監督に就任した(写真は全て本人提供)

早稲田大学卒業後、なでしこクラブなどで監督・コーチを経て監督兼経営者へ。そして昨年より、母校である早稲田大でア式蹴球部女子部の監督として後輩たちを指導しています。連載「監督として生きる」ではそんな福田あやさん(36)の現役時代も含め、3回の連載で紹介します。初回はサッカーとの出会いと学生時代についてです。

1型糖尿病を発症、サッカーだけはやめなかった

横浜生まれの福田さんは父が社会人サッカーチームの代表だったため、幼稚園の時からサッカーボールと触れ合っていたという。姉と2人姉妹。「姉はどちらかというスポーツが苦手なタイプだったから、スポーツ好きの父は次女こそはという気持ちもあったのかもしれません」と福田さんは当時を振り返る。強豪チームでサッカーをしていた人から「ボールは素足で触るんだ」と教え込まれ、男子に混じってサッカーにのめり込んだ。

小学生になってからはサッカー以外に体操や水泳、バイオリンなど様々な習い事を始めたが、10歳になった時に1型糖尿病を発症。日常生活から血糖コントロールをし、スポーツの合間に補食をしないといけない。実際に、試合中に倒れて運ばれることもあったという。そのため習い事を諦めなければなからなかったが、それでもサッカーだけはやめなかった。

「走れなくなったり体の変化だったりと、それまでできていたことが急にできなくなって、もちろん親もそうですし、クラブの指導者も私の見えないところでものすごく気を遣ってくださっていたと思うんです。でもサッカーだけは続けるという思いはどこかにあって、大変だということを当たり前と思ってやらないとどうしようもないことなので、そこまで理由付けしてフラストレーションに感じることはなかったです。普通にサッカーが楽しいからやっていましたから」

自身初の強豪チームで「違う」と言われ

中学生になってからは神奈川県リーグに所属するHFCレディースでプレーし、初めて女子サッカーチームを経験。高校でもHFCレディースで活動し、皇后杯の関東予選や関東リーグなどに出場していたが、強豪チームというわけではなく、福田さん自身も楽しむというモチベーションでサッカーと向き合ってきた。

「私のサッカーはボールを裸足で扱うようなストリートサッカーから始まったので、サッカーのとらえ方は自分とボール、自分と相手という関係。相手と駆け引きしてどうだますか、というところに面白みを感じていました。だから例えあまり強くないチームでも、自分は楽しくサッカーをしていたんだと思います」

しかし競技歴を重ねる中で、次第に強豪チームで戦ってみたいという気持ちが湧いてきた。またトレーナーにも興味があった福田さんは、スポーツ医学を学べる大学に絞って考え、それに合致するのは早稲田大しかないと考えた。志望校は早稲田大一択。死ぬ気で勉強し、早稲田大学スポーツ科学部スポーツ医科学コースに現役合格した。

早稲田大で初めて組織的なサッカーに触れ、素直に面白いと感じた

早稲田大に入学してからは迷うことなくア式蹴球部女子部に入部。周りには年代別日本代表に入る選手がゴロゴロおり、その違いは入部してすぐに感じた。「例えば私は目の前の選手と駆け引きしながらプレーをしてきたのに、『違う』と言われる。なんでそんなこと言われるんだろうと思いもしましたけど、チームとしてはその局面というより全体でやることの方が正解なんです」。福田さんは小さい頃、監督も含めた全24人を1人で演じる遊びをしていたという。サッカーを俯瞰(ふかん)して全体像で見る。何げなくしていたその1人遊びを今度はリアルでできることが面白く、自分が求めていたサッカー像だと確信した。ただ福田さんは身長154cmと小柄で、その自分がどうチームの中で機能できるのか、悩みは尽きなかった。

スポーツ医科学での学びをサッカーに

結局、福田さんは大学4年間、スタメンとしてプレーすることはできなかった。高校までチームの中心メンバーでやってきただけに、フラストレーションがなかったと言うとうそになる。しかしそれ以上に、仲間から学ぶことが多かった。「例えば基礎練として代表に入っている子とペアになって10本蹴るというのがあった時、彼女は全部違うシチュエーションを考えてやってるんです。ものすごく1本の質にこだわってて、そういう姿勢を目の当たりにすると、今までの自分の積み重ねと全然違うんだなと衝撃も受けたし、学びも受けました」。練習から1本も無駄にしない。強さへのこだわりを仲間から日々感じた。

特に福田さんが2年生の時、早稲田大は初めてインカレを制している。当時のチームのことを「めちゃめちゃ言い合ってましたね」と振り返る。選手同士が意見をぶつけ合い、部のモチベーションが下がっていると感じた時は「この空気はぬるい」「ちゃんとやろうよ」とストレートに口にする。スタメンとサブメンの紅白戦でも、サブメンはスタメンを負かす気概に満ちあふれ、時には勝敗に涙を流す。「技術が高い選手が集まっていたのは確かにそうなんですけど、それ以上に熱量がものすごかったです」と福田さんは言う。

福田さん(2列目右から4人目)が2年生の時、早稲田大はインカレ初優勝を成し遂げた

スポーツ医科学コースでの学びは選手としての日々にも生きた。「当時からテーピングとかマッサージとか、コンディショニングにすごく興味があって、部活内でも実践していました」。監督になった今、医学知識や科学知識があるかどうかは、選手を指導する上でもチームをマネージメントする上でも重要だと感じている。共通言語があるため、トレーナーなどのスタッフ陣と話す時も互いの理解が早く、それが信頼関係につながっている。もちろん自分の病気のこともある。

「チームには各専門分野のスペシャリストがいて、監督自身がスペシャリストでなくてもいい。でもチームを率いる立場で、選手を預かる立場です。それは選手の人生や命を預かることだと認識していますし、大学で学んだ知識はすごく生きているなと思っています」

現役最後の大会は、アベック優勝がかかっていたインカレだった。準決勝の相手は日本体育大学。日体大の選手は「絶対にアベック優勝はさせない!」という気迫をみなぎらせ、試合は1-1でPK戦へ。最終的には3-4で敗れ、日体大はそのまま優勝をつかんだ。早稲田大は同年、関東大学リーグを初制覇している。OBからは「1発勝負のインカレよりもリーグ戦優勝の方が難しいだから誇りにしていいんだよ」と励ましてもらったが、最後に勝ち切れなかった悔しさはずっと胸に残った。それでも大学4年間、そして選手としてやり残したことはないと福田さんは言い切る。

監督として生きる

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