「サッカーに呼ばれてるな」広告業界から指導者へ 早稲田・福田あや監督2
早稲田大学卒業後、なでしこクラブなどで監督・コーチを経て監督兼経営者へ。そして昨年より、母校である早稲田大でア式蹴球部女子部の監督として後輩たちを指導しています。連載「監督として生きる」ではそんな福田あやさん(36)の現役時代も含め、3回の連載で紹介します。2回目は早稲田大卒業後、一般就職を経てサッカーの指導者になったことについてです。
自宅待機の新卒時代にコーチをし、インカレ優勝
福田さんは大学でサッカーに区切りをつけ、在学中に広告制作会社に内定。仕事の幅を広げるためにイギリス留学を志して留年し、9カ月ほどイギリスで語学を学び芸術に触れた。しかしその留学中にリーマン・ショックが起きて世界経済が混乱し、その影響は日本にも波及。福田さんは帰国後、予定通り広告制作会社に就職したが、自宅待機が続いた。出社は月に1度の研修だけだった。
そんな中、「時間があるならコーチをお願いしたい」と早稲田大から要請があり、福田さんは2009年にコーチとして後輩たちの指導にあたった。その年に早稲田大は4年ぶり2度目のインカレ制覇。就職先の会社は1年経っても状況は変わらず、福田さんは引き続きコーチとして学生たちと向き合い、チームはインカレ2連覇を成し遂げた。
「1型糖尿病を患った時にサッカーだけはやめず、就職した後にコーチとしてまたサッカーに関われた。そしてインカレ2連覇。自分、サッカーに呼ばれてるなって。だとしたらこれはタイミング的にそうなんだろうなと思いました」
就職先の会社の社長に相談したところ、「絶対そうした方がいい」と背中を押されて退職し、福田さんはサッカーの指導者として生きていくことを決意した。
初の熊本で初の監督
11年、福田さんはオファーを受け、益城ルネサンス熊本フットボールクラブ(現・熊本ルネサンスフットボールクラブ)の監督に就任。チームは前年に日本女子サッカーリーグから地域リーグに降格し、ゼロベースで再建を目指している最中だった。当時の福田さんは25歳。初めての地方であり、監督としての経験もなかった。
「けして簡単なことではないなと思いました。監督は指導するだけじゃない。指導するのは当然で、チーム活動のために町長や町の商工会議所、スポンサーの方とか、支えてくださっている方に直(じか)に会って話をすることもたくさんある。チームに対する責任も全く違うし、様々な方の支えの中でチームは成り立っているんだなと改めて感じました」
大事にしたのは一人ひとりへのリスペクト。「立場うんぬんの前に人間ですので、ピッチ外のところももちろん、人として敬意を払うという意識が必要で、選手に信頼してもらうためにはいい練習、納得のいく内容、言葉が必要です」。自分の中に揺るがない芯を持ち、1年目、5年目、10年目のビジョンを語る。そのために今、どんな練習が必要なのかを丁寧に説明し、根拠を示す。選手一人ひとりに寄り添いながら、福田さんはチームを盛り上げ、1年目に九州女子サッカーリーグで初優勝した。
そして2年目、入れ替え戦進出をかけてNGU名古屋FCレディースと対戦。0-0でPK戦となり、名古屋の10人目のキッカーに決められ、試合終了。「運で片付けちゃいけないんですけど、10人までいったら……。もちろん選手のせいじゃないです」。最後の最後に勝ち切れなかったチームを目の当たりにし、我流でやってきた自分の指導者としての限界を感じた。選手たちのためにももっと成長しないといけない。チームとの契約もあったが、福田さん自身も引き際を感じていた。
アカデミー創設を経て、トップチームのコーチに就任
福田さんはJリーグ経験者でS級ライセンスを持つ監督の下でコーチとして学びたいという思いから、「自分を面接してください」とノジマステラ神奈川(現・ノジマステラ神奈川相模原)に申し出た。話を聞いてみると、同じタイミングでアカデミーが創設されるという。福田さんは何もないところから生み出すことに魅力を感じ、たった1人のアカデミースタッフとしてスタートした。スクールの料金設定、大会会場となるグラウンドの交渉、スポンサー獲得……。毎日やることなすことが初めてのことだったが、そうした環境を素直に楽しいと感じられたという。
「U-15とU-18の監督としてチームを育て、選手もスタッフもみんなで上を目指そうというところに携わらせてもらえました。子どもたちも含め、どうやってこのクラブを愛してもらうか、どうやって憧れの場所にしていくか、そしてどうやって町や子どもたちの未来のために存在するクラブを作り上げていくか。そのエネルギーとかまとまり感とか、チームや選手が発揮する力のすごさとか。人の力、思いの力、行動の力というのがすごく大事なことだと学ばせてもらいました」
アカデミー創設4年目になった16年、初めて高校生だけでU-18のチームを編成できるようになったタイミングで、福田さんにトップチームのコーチとして打診があった。なでしこリーグ1部昇格を目指してトップチームは、2年連続、あと一歩のところで昇格を逃してきた。次にかける思いは強く、そのための新しい力として新シーズンの直前に福田さんに声がかかった。
福田さんは手塩にかけてきたU-15とU-18の選手たちと一緒に、これから日本一をとるために動いていた最中だった。もちろん葛藤もあったという。それでもコーチを決断したのは「クラブ愛」だった。「クラブのシンボルとしてトップチームがあります。そのトップチームを強化することは、トップチームを目指す子どもたちのためにも大事なことだと思いましたし、そのために声をかけてくださったことはすごく光栄なことでした」
自分にできることを全て出し切ると覚悟を決め、福田さんはトップチームのコーチに就任。チームを支える一方で、監督がどのように振る舞い、どうチームを導いているのかを見て学び、自分なりのベストなコーチ像、監督像を模索しながら全力で当たった。その年にトップチームは無敗でなでしこリーグ2部を勝ち上がり、初めてなでしこリーグ1部に昇格。翌17年には皇后杯で準優勝。仲間と努力を重ねてきた日々も、熊本で味わったあの悔しさも、積み重ねてきたもの全てが結実した思いだった。