バレー

連載:監督として生きる

最初の指導は「挨拶」、会話を繰り返し見本となる姿を示す 日体大・山本健之監督3

山本監督がJTでプレーしている間にリベロが導入されることになった(写真は本人提供)

昨年の関東大学男子バレーボールは新型コロナウイルスの影響を受けて様々な大会が中止になり、12月の全日本インカレだけが唯一最後まで戦えた学生大会の公式戦でした。その全日本インカレで日本体育大学は2014年以来となる決勝進出を果たし、準優勝。連載「監督として生きる」では09年から日体大を率いる山本健之(けんじ)監督(51)の現役時代も含め、4回にわたって紹介します。3回目は日体大卒業後、1992年に進んだJT(現・JTサンダーズ広島)時代についてです。

戦うリベロ

94年からは日本リーグに変わってVリーグがスタートし、山本監督はリベロとして活躍。日本リーグやVリーグだけでなく、同年は日本代表へ選出され、ワールドリーグや世界選手権、アジア選手権、アジア大会など数多くの大会に出場している。

リベロというポジションは、レシーバーとして数多くの試合に出場してきた山本監督にはまさに天職。当時の対戦相手で、現役引退後にNEC男子で監督を務めた楊成太さんは、「打つ瞬間に動くし、とにかくすばしっこい。普通に勝負したらめちゃくちゃ嫌な選手ですよ。でもこちらもそれが分かっているし、いる場所へ打てば絶対拾われるからギリギリまで打つ場所を見せず、あえて逆に打ったり、駆け引きがとにかく楽しかった」と振り返る。

山本監督もまさに同様で、「相手より速く動けばいいんだから、コートの中で誰よりも速く動いた」と言うように、拝借した現役時代の試合映像を見れば、そのスピードは一目瞭然。スパイクやサーブ、ブロックなどリベロは直接プレーで得点を挙げることはできないが、1本のレシーブ、動き、周囲への声かけで点を取る姿勢。まさに相手を圧倒するような、戦うリベロそのものだった。

何度も「健之しかいない」と頼まれて決断

2005年まで現役を続け、35歳で引退。その後もバレーに関わり続けることを望んではいたが、バレー選手であるだけでなくJTの会社員でもあり、社の意向もある。ユニホームを脱ぎスーツをまとい、営業職でも利益や成果を上げる中、30代最後の年に転機が訪れた。

日本代表も担った山本監督(手前)は、35歳で現役を引退した(写真は本人提供)

「日体大の監督を引き受けてほしい。健之しかいないから」

広島県内で社業に励む山本監督を何度も説得したのが、日体大の森田淳悟前監督だった。もともと日体大は監督の交代が少なく、ひとりの任期が長い。育成から選手の勧誘、強化まで幅広く長期的視野の下で育むためには必須なのだが、森田前監督も日本バレーボール協会の職務や、日体大内での職務と並行する多忙な日々を過ごす中、バレー部に情熱を注いでくれる後任を、と考えた。その結果が、何度も繰り返された「健之しかいない」の説得だった。

「もともと指導者になりたいと考えたことはありませんでしたが、(広島工大)高校時代、恩師に『お前が相手チームの監督だったら嫌だな』と言われたことがあったんです。確かに現役時代からいろんなことを試してチャレンジするのは好きだったし、自分だけでなく、周りも『もっとこうしたらいいんじゃないか』と思うこともあった。実際、人にアドバイスをする機会もありましたし、チャンスがあればやってみたいという気持ちもありましたが、なかなかご縁がなかった。そこで森田先生から『やってみないか』と。ありがたいお話でしたが、生活もあるし、日体大を背負う責任、重圧もある。だから『僕より適任の方がいるはずです』と何度かお断りしたんです。それでも『健之しかおらん』と言っていただく中、これがラストチャンスかもしれない、と覚悟を決めました」

40歳で会社を辞め、上京した。バレー部の監督を引き受けるといっても、そのまま即採用されるわけではなく、一般公募の試験を受けた後、ようやく教員としての採用が決まる。待遇も生活面も保証があったわけではないが、「やる」と決めてからは迷わなかった。

「結局、バレーボールが好きなんですよね。だからバレーボールに携わっていけるならば、と腹を決めて広島を出てきたので、給料はいくらでもよかった。これまで先輩方が築き上げてきた日体大の歴史を継承して、これからの日体大につなげていかなければならない、と思ったんです」

最初に教えたのはとにかく「挨拶」

とはいえ監督になった当初は想定外のことばかりだった。日体大を卒業して、JTでの13年を経て久しぶりに母校へ赴く。日体大職員の案内の下、懐かしさを抱きながら校内を周り、体育館に入ると数名の学生たちが自主練習をしていた。

あれ。その時点で違和感を覚えたがそのままコートへ近づくも、キョトンとした顔で学生たちは何も言わず、そのまま練習を続けている。見かねた職員が「次にバレーボール部の指導をされる山本さん、知っているかな?」という問いかけに対する、学生からの答えに絶句した。

「はい、知っています」

いやいや、知っていて何も言わないのか。思わず口をついて出た。

「君たち、バレー部だよね。挨拶(あいさつ)しようよ」

驚くよりもショックだった。山本監督が振り返る。

「学生からしてみれば、確かに知らないおじさんかもしれない。でもコートまで来たらどう見ても関係者で、ましてや“知っています”なのに、挨拶もできない。ショックでしたよ。だから就任して最初の1年はバレーボールの指導は何もしていません。とにかく『挨拶をしなさい』と。これは口うるさく言いました」

監督として久しぶりに日体大の後輩たちに対面した際、挨拶ができないことに驚いた(写真は本人提供)

最初は恐る恐る「やばい人が来た」と怯(おび)えていた学生たちも、「なぜ挨拶が必要か」「人間性を高めることがバレーにもつながる」と口酸っぱく唱え続けるうちに、少しずつ変化が生じる。挨拶から少しずつ対話へつながり、なぜこれが必要なのかを、生活態度から一つひとつのプレー、体の動かし方や使い方、そのために必要な筋力、可動域など細かく説明するうち、選手たちの姿勢も変わり始める。その過程を見るのが何より楽しかったと言う。

「下級生から上級生になるにつれて大人の考えが持てるようになるし、知恵がつくのと一緒で人として成長していかない限り、バレーボールも成長しないのは目に見えて分かる。結局は“人間力”なんです。そのためには、指導する側も『もっとこうなれるよ』『もっとできるようになる』『こんなレベルがあるんだよ』と提示してあげることが必要。それは学生だからではなく、アスリートである以上、当たり前でなければなりません。少しうまいからって下級生に偉そうにしていても、後輩はついてこない。『お前みたいな先輩がいたらどう思う?』と聞くと『嫌ですね』と言うから、『そうやろと(笑)」

大学の4年間、高校から入って間もない18歳から22歳へ進化を遂げる時間は劇的な成長期でもある。高校時代はある種一方通行に押し付けられ、「言われている意味が分かるか?」と問われても「はい」と答えればよかったが、大学そして山本監督の考えは違う。

「こちらの問いに対して『はい』だけじゃなく、『いやいや、どう思った?』と必ず聞きます。そこで『こういうことを意識すればいいんですか?』と答えてくれれば、そこから会話が成り立つし、それがキャッチボールですよね。私も学生を見るし、学生たちも当然私を観察する。しかもお互い考えていることを確認し合っていくうちに、『こんな気遣いができるようになったのか』と形になって見えてくるようになると、もう最高ですよ。社会に出てから『先生にあの時言われていたことの意味が分かりました』と言われたり、周りの方から『あの子はこんなに変わった、成長した』と言われたりするのが一番うれしいですね」

「山本先生、大学5年生みたいですね」

互いを理解すべく、会話を繰り返す。だが、納得させるための秘訣(ひけつ)はそれだけではない。もうひとつ、山本監督だからこそなせることがある。証言するのは昨年、日体大に入学し、今季は日本代表としても活躍する2年生の高橋藍(東山)だ。

「一つひとつ、練習の中でもここでこうやって(ボールを)上げる、とか、なぜそうしなければならないか説明してくれる中、実際に山本監督が見本を見せてくれるんです。しかもそれがめちゃくちゃうまい(笑)。だからそれを見るたび、まだまだ全然かなわないなと思うし、もっとやらなきゃ、と思わされるんです」

選手に見本を示せるよう、バレーの技術も磨き続けている(撮影・松永早弥香)

卒業したOBが久しぶりに練習を見ると、皆決まって同じことを言う。「山本先生、大学5年生みたいですね」と。

「こういうプレー、考え方があるよと言うだけじゃなく見せる。そうすれば、学生は『え?』と驚いて、そのためにこの筋力、稼働範囲が必要だと説明すると入り方が違う。理解させて納得させることはもちろんですけど、私自身、長い時間をかけて積み重ねてきたものですから。まだまだ学生には負けませんよ(笑)」

日々繰り返される新たなチャレンジ。まさにその挑戦を象徴したのが、世界中が未曽有の危機に見舞われた2020年だった。

監督として生きる

in Additionあわせて読みたい