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連載:監督として生きる

“スーパー三流”選手だったからこそ、今もまだ成長できる 早稲田大・松井泰二監督1

松井監督は2012年からコーチとして、2014年から監督として、早稲田大学で指導している(提供・月刊バレーボール)

男子バレーボール関東1部リーグの早稲田大学を率い、昨年の全日本インカレでは3連覇を達成。ユニバーシアード男子日本代表でも監督を務め、大学バレーボール界のみならず、もはやバレーボールにおいて立派な“名将”であるにも関わらず、当の本人、早稲田大・松井泰二監督(53)は笑いながら否定する。「次男坊で、名前も泰二。僕の人生はいつも2番目なんですよ」。連載「監督として生きる」ではそんな松井監督の現役時代も含め、4回にわたって紹介します。初回はバレーとの出会いと学生時代についてです。

“ヤンコ”こと後輩・矢島久徳氏に支えられて

東京・両国生まれの江戸っ子。相撲部屋が立ち並ぶ立地で育ったせいか、幼いころから選手同士がぶつかり合うコンタクトスポーツにひかれ、小学生のころはサッカー少年だった。当時は身長も高く、高身長のディフェンダーとして期待を寄せられたが、同じ中学に進んだ3つ上の兄から「サッカー部は乱暴だからやめた方がいい」と止められ、それならば、と身長が生かせるだろうと考え、バレー部へ。

たまたま家の近くにあったのが市川市立第八中学校(千葉)で、たまたまバレー部に入っただけなのだが、2つ、奇縁が重なる。1つ目は市川八中が全国大会にも出場するような強豪校で、初心者とはいえ基本からバレーを学ぶ環境があったこと。そして2つ目が1つ下の後輩に、後にVリーグへ進み選手としてプレーした後、監督としても東レ・アローズを日本一に導いた矢島久徳氏(現・男子バレー日本代表強化委員長)が入ってきたこと。

当時、市川市で水泳の記録も打ち立てるなど、抜群の運動能力を擁する矢島氏は、松井監督に言わせれば「性格も真面目で、バネもセンスもすべて備えた選手」だった。一方、自身は中学に入ると身長も伸びず、バレー選手になるような力はないと考え、もともと勉強も好きだったので、高校はバレーと勉強の両立を、と千葉県内の進学校の八千代高校へ。

当時の千葉は、全国も制した習志野高が圧倒的な強さを誇っていたが、八千代高も2、3番手にはつける強豪。「打倒習志野」を掲げて1年が過ぎ、2年生になった春、中学に続いて矢島が八千代高に入学してきた。親しみを込め、矢島氏を“ヤンコ”と愛称で呼びながら、松井監督が当時を振り返る。

「ヤンコほどの選手ならば、習志野へ十分行けるし、実際、彼の代で習志野高は全国優勝したんです。習志野へ行ったらいい思いができただろうに『松井さんのトスが打ちたいから八千代にした』なんて、言ってくれてね。僕は大したセッターではなかったけれど、ヤンコのような優しい、素晴らしいスパイカーに育ててもらったおかげで、今もこうして、バレーボールに携わることができているんです」

早稲田で中村貴司氏に出会い、一流を知った

高校卒業後は早稲田大へ進学。バレー部に入るも、当時は「2番手どころか3、4番手」と言うように、試合へ出る機会があってもセッターとしてではなく、ピンチサーバーとして出ることがほとんどだった。だが、高校で矢島氏との出会いがあったように、大学でもまた新たな出会いに恵まれる。

早稲田大でも、松井監督(右端)はその後の人生につながる出会いに恵まれた(写真は本人提供)

松井監督が1年生の時、4年生の正セッターは中村貴司氏(現・NECレッドロケッツのGM)。東亜学園時代に全国制覇をなし遂げたキャリアが示すように、ボールコントロールやゲームメイクのセンスは抜群。だが、偉ぶることもなく、日々の練習で常に自身を気遣い、育ててくれた。当時の記憶をたどりながら、松井監督は涙を浮かべ、言葉を詰まらせた。

「コンビ練習をしている時、僕はネットの下からボールを出すんです。目の前に中村さんがいて、トスを上げる。それを見るだけでも勉強になるんですが、一つひとつ僕に語ってくれるんですよ。『まっちゃん、今のトス、分かるかな』って。大学時代は高校時代と違う苦しいこと、大変なこともありました。でも中村さんのようなあんな一流のセッターが、僕みたいな三流セッターに語りかけて、教えてくれる。ああいう人を見て、一緒にやらさせていただいたおかげでね。何もできない自分を、いろんな人が支えてくれました」

「僕もまだ成長期だと思っています」

当時は中垣内祐一氏(当時は筑波大、現・男子バレー日本代表監督)や青山繁氏(当時は法政大、現・中京大監督)など、日本代表でも活躍した選手が関東1部リーグに多く在籍し、多い時には早稲田の体育館へ観客が6000人近く詰めかけたこともある。そんな華々しい時代、松井監督も4年生の時には副将を務めた。

選手としてのラストイヤー、松井監督は副将としてチームを支えた(写真は本人提供)

光り輝く場所にいたわけではない。だが、多くの出会いとその都度受ける刺激。4年間自分のやるべきことを頑張り抜いた自信。成績や結果だけでなく、得られたものは数えきれないほどにあり、何より、学ぶ楽しさを知った喜びは、指導者として日本一も経験した今にもつながる原動力でもある。

「選手としては三流、スーパー三流ですよ。ユニバもコーチは秋山(央、現・筑波大監督)さん、(松永)理生(現・東山高コーチ)さんは一流だけど、監督の僕は三流。でもね、三流って楽しいんですよ。知らないことばかりだから、周りにたくさん聞くことができる。僕もまだ成長期だと思っていますから。まだまだ、成長したいんです」

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