バレー

連載: プロが語る4years.

特集:東京オリンピック・パラリンピック

就職のことも考えて高校に進み、軽い気持ちでバレー部へ、パナソニック山内晶大1

愛知学院大学時代から日本代表を経験した山内は卒業後、パナソニックパンサーズでプレーをしている(写真提供・パナソニックパンサーズ)

今回の連載「プロが語る4years.」は、バレーボール男子日本代表としても活躍するミドルブロッカーの山内晶大(26)です。2016年に愛知学院大学卒業後、Vリーグのパナソニックパンサーズに進み、チームの中心選手として戦っています。4回連載の初回はバレーとの出会い、高校3年生の時に訪れた転機についてです。

バスケ少年がハンドボールをしようとするも……

日本代表として活躍する選手はきっと、高校や大学時代からエリート街道を歩んでいるのだろう。おそらく大半がそう思うはずだ。だが、例外もいる。山内晶大はまさにその一人。「バレーボールで生きていくなんて、考えもしませんでした。僕の人生、人と運に恵まれているんです」

身長204cm。日本代表の中でも屈指の高さを誇る。生まれた時から身長55cm、体重4300gと大きく、中学入学時には170cmを超えた。母がバレー経験者でもあり、幼いころからバレーに触れる機会はあったが、小学校のクラブ活動にバレーがなかったため、小学4年生から始めたバスケットボールを中学でも継続。高校入学後も、そのままバスケを続けるか、新たにハンドボールを始めようと思っていたが、練習の見学にいくと、上背では劣らずとも筋肉や体格で勝る選手ばかりで気後れした。

「昔から線が細かったので、ここでやっていけるか? と考えたら無理だろうなって。ちょうど同じタイミングでバレーボール部の顧問の志水(洋)先生から『バレーはバスケよりもきつくないからやってみないか』と言われて、『やってみて嫌だったらやめればいいや』と、軽い気持ちでバレー部に入部しました」

そもそも山内が進学したのは、バレーの名門校でも強豪校でもない名古屋市立工芸高校。普通科の高校に進学するよりも、土木の知識や測量などを学べて資格も取れる。将来就職する時にも役立つだろうと考えていた。

バスケの感覚で跳んでいる内に

バレーは素人だったが、だからといって練習についていけないか、と言えばそんなこともない。周りは小学生や中学生からバレーを始めた選手ばかりだったが、その中で山内は壁に向かってアンダーパスやオーバーパスの個別練習をしながら、徐々に見よう見まねでスパイクを打っていた。バスケの感覚で跳び、高い場所から打つ快感を覚えると、さほど興味がなかったはずのバレーも面白く感じるようになった。

高校バレーでは夏のインターハイやお正月の春高へ向け、様々な県大会やその前の地区予選、いろいろな大会がある。しかし当時は、どの大会が何につながっていたのかさえ、理解していなかった。

「県大会なんて全然。そんなレベルじゃなかった。基本的に、これが何の大会かよく分からないままずっとやっていました(笑)。実際僕らは名古屋市の中でも北と南で地区大会があって、その1回戦とか2回戦で勝てるか勝てないか。最初のころはバレーボールをするだけで精いっぱいで、試合の内容やどのチームと戦ったのか、どういうことが起きたかも分からないまま終わることばかりでした(笑)」

どんどん背が伸び、国体に抜擢

全国大会などはるか遠くにあるもの。ずっとそう思っていた山内にとって、転機は高校3年生の秋に訪れた。大会では勝てなかったと言うが、身長は伸び続け、高校入学時には182~183cmだった身長が、2年生で192cmになり、3年生になってもまだまだ伸び続けた。

バレーの世界では技術も優れた才能であるように、高さも立派な武器の一つ。「卒業後は土木工学の大学へ進学しようと思っていた」と山内は言うが、「名古屋工芸にデカい選手がいる」と噂を聞きつけ、山内は国体の愛知県代表選手に抜擢(ばってき)された。

愛知県代表選手として2011年の山口国体に出場(右端が山内、写真は本人提供)

初めての全国大会は名古屋の地区大会以上に誰が誰かも分からず、試合の内容もほぼ覚えていない。それでも一人の選手としては、全国大会出場という経験を重ねたことで、進路の選択肢も増えた。バレーを続けるにしても、遊び感覚で楽しくできればいい。そう考えて名古屋市内の大学へ進もうと考えていた山内のもとに、高さと将来性を評価し、東海1部リーグの愛知学院大から声がかかった。

将来もバレー選手として活躍したいとまでは考えていなかったが、どうせ大学でも続けるならば強いチームでやってみたい。愛知学院大への入学が、バレー選手として想像もしなかった人生を切り拓(ひら)く大きなきっかけになった。

プロが語る4years.

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