バレー

連載: プロが語る4years.

特集:パリオリンピック・パラリンピック

パリバレー・宮浦健人1 鎮西中の1期生、高校3年で日本一をめざした矢先の熊本地震

元早稲田大で現在はパリでプレーしている宮浦健人(撮影・平野敬久)

今回の「プロが語る4years.」はバレーボール日本代表で、現在はパリでプレーしている宮浦健人です。全4回で初回は1期生として入部した鎮西中での競技生活や、高校3年時の熊本地震、春高バレーについて振り返ります。

ストレート勝ちでも口から出るのは反省の言葉

サウスポーから繰り出されるスパイクが決まるたび、観客席からどよめきが起こる。ただの大歓声ではなく、どよめき。宮浦健人が発するスパイクの音は他の選手と比べて、明らかに重さと威力が群を抜いていた。

4カ月後にはオリンピックが開催されるパリ。プレーオフも始まり、佳境を迎えたバレーボール・フランスリーグのパリ・バレーで、宮浦は押しも押されぬ攻撃の柱として活躍していた。試合が始まる前から誰よりも多くの歓声を受けているのだが、試合後に話を聞けば常に、よかったところよりも課題が先に出てくる。

取材に訪れた2月10日のモンペリエ戦もそうだった。パリよりも上位のチームにストレート勝ちを収めたのだから、喜んでもいいはずなのに、宮浦の口から出るのは反省ばかりだった。

「今日は全然ダメでした。特に最初のほうはブロックにも止められるシーンが多かったし、なかなかメンタルがやられる試合で(笑)。相手の高いブロックを意識しすぎて、力んでしまったのも反省だし、うまくいかない時は悔しい。周りに助けられました」

現地では攻撃の柱と呼ぶにふさわしい活躍を見せていた(撮影・平野敬久)

それでも、そこからまた前を向けるのが、宮浦の強さでもある。

「3セット目になって、少し立て直せたのはよかったです。うまくいかない時もある、と試合の中で実感できた。いろんな意味で、いい試合でした」

うまくいかない時もしっかり矢印を自分に向けて、受け止める。誰かや何かのせいにすることなど、聞いたことがない。学生時代から、宮浦は変わらず、強くて頼れるエースだった。

間近で見る鎮西高校に憧れて

小学2年生の時にバレーボールをしていた両親や兄の影響で、自身も始めた。もともと外で遊ぶことが好きな活発少年。今でこそ、パワーあふれるスパイクが武器ではあるが、当時は細くて力も技もない。宮浦も「周りの選手の方がずっとうまかった」と振り返る。中学入学を機に、バレーボール選手としての道が開かれていった。

きっかけは、父の母校でもある鎮西高校(熊本)に付属の中学校ができたこと。その1期生として入学しないか、と鎮西高のバレーボール部を率いる父の恩師、畑野久雄監督から誘いを受けた。近隣の中学にはバレーボール部があるとはいえ、人数も少ない。それならクラブチームに入って続けるか、と思っていた矢先の誘いを断る理由はなく、片道1時間半をかけて地元の熊本県荒尾市から鎮西中がある熊本市まで通う日々が始まった。

同期はわずかに2人。基礎や基本は学べる一方で、応用練習は他校との合同練習でなければできなかった。1期生のため先輩も後輩もいない。公式戦に出場することすらできなかったが、宮浦には「うまくなりたい」と思うモチベーションがあった。中学と同じ体育館で練習する鎮西高校の存在だ。

バレーボールをしていた両親や兄の影響で自身も始めた(本人提供)

熊本に留まらず、全国優勝の経験も数多くある名門。エースアタッカーも数多く輩出され、黄色いユニホームから力強くたたき込む選手たちの姿を宮浦も数多く見てきた。中学入学時は160cmに満たなかった身長は中学3年時には187cmに届くか、というところまで伸びた。間近で見る鎮西高校の練習に「いつか自分も」と憧れを抱き、中学で3年間の基礎練習を重ねた後、2014年に鎮西高校へ入学した。

よかったこと、できたことを振り返る方が難しい

高校では1年目から出場機会をつかんだが、宮浦に残るのは苦い記憶ばかりだ。

「自分のせいで負けたとか、何もできなかったとか。むしろよかったことやできたことを振り返る方が難しいです」

最初の春高では、東京代表の早稲田実業高校と対戦。気合が逆に空回りして「地に足がついていなかった」と振り返るように、試合でもミスを連発した。あっという間に最初の春高を終え、2年生になってからはその悔しさを糧に、どうすればもっといいスパイクが打てるのか。チームを勝たせることができるのかを考え、ひたすら練習した。鎮西高の練習時間は2時間程度だったが、全体練習を終えてからの自主練習でスパイクを打ち込んだ。1学年先輩の竹下優希とともに2枚エースとして攻撃の柱となり、2度目の春高は準決勝で駿台学園高(東京)に勝ち、決勝に進出。東福岡高に敗れはしたが、準優勝と一気に飛躍を遂げた。

決勝に進むうれしさと同時に、敗れる悔しさを味わった。それならば最後の1年は決勝で勝つのみ、とキャプテンになった宮浦は誰よりも意気込んでいた。鎮西高校を代表する背番号でエースの証しでもある「3」をつけ、目標とする日本一に向けて、決して大げさではなくすべてをかけて、挑む覚悟だった。

反省の言葉を述べるのは、今も昔も変わらない(本人提供)

その矢先に、熊本地方を最大震度7の地震が襲った。

2016年4月14日。鎮西高がある熊本市内も大きな被害を受け、体育館の床は落下。半壊した体育館を使用することはできず、学校生活どころか日々の暮らしもままならない。当然、部活動どころではない。地震発生から1カ月近くが過ぎた頃にようやく落ち着き始めたが、練習場所はない。佐賀や福岡まで宮迫竜司コーチが運転するバスで移動し、授業を終えてから1時間半程度、練習するのがやっと。体育館を借りられない時は校庭の砂場に臨時のコートをつくった。外で練習し、暗くなってボールが見えなくなってからは1人で体幹トレーニングを行い、ひたすら校庭を走った。満足のいく練習時間を取れていないことがわかっていたからこそ、できることをやるしかない。文字通り、ただ必死に、1日1日を過ごすしかなかった。

一切の言い訳をしなかった最後の春高

試合はあっという間にやってきた。2017年1月5日、宮浦にとって最後の春高が開幕した。前年度準優勝の鎮西は2回戦が初戦となるシード校。練習試合も例年に比べるとできていなかったので、優勝を目指すのはもちろんだが、少しでも多く試合がしたいと思っていた。

しかし、迎えた初戦、習志野高(千葉)との試合でエースの宮浦は徹底的にマークされた。それでも2枚、3枚のブロックを打ち破るのが仕事だ。力の限りを尽くしたが、チームとしての自信や武器を得るための練習不足は否めず、結果は0-2のストレート負けだった。

前年度の準優勝校であるだけでなく、被災地からの出場で過度な注目が集まる中、多くのカメラが向けられる中でも宮浦は一切の言い訳をしなかった。

「弱いから負けた。(エースの)自分がふがいなかったせいで、負けました」

鎮西高時代、春高でプレーする宮浦(本人提供)

競技人生を振り返る時、宮浦はいつも「悔しいことのほうが多かった」と言う。中でも「自分の力ではどうにもできなかった」と、一番苦しい時期として挙げるのが高校3年時に見舞われた熊本地震だ。

なぜ今なのか。なぜ自分たちなのか。そんな悔しさを一切ぶつけることなく、胸に秘め、さらに強くなると誓う。

どんなときも逃げないエースが、さらに強く、たくましく。より高いステージへと上がっていくのは、その先。早稲田大学に入学してからだった。

パリバレー・宮浦健人2 鎮西で逃げないこと覚え、早稲田で知恵・体力・筋力を上乗せ

プロが語る4years.

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