野球

連載: プロが語る4years.

ベイスターズ・東克樹 けがからスケールアップして復帰、立命館大学から根付く思考法

けがの期間中、どのように自分と向き合ったかという思考が今に生きている(撮影・安藤仙一朗)

プロの世界で活躍するアスリートが自身の大学時代を振り返るシリーズ「プロが語る4years.」。今回登場するのは横浜DeNAベイスターズの左腕・東克樹です。立命館大学時代は1年生のときに関西学生リーグで登板を果たしましたが、2年目に左ひじを故障。「その期間がなければ、今の姿はない」と語ります。

すぐに投げられる機会求めて関西へ

愛工大名電高(愛知)出身の東は、高校2年のときに甲子園の土を踏んでいる。ただ、当時は1学年上に大谷翔平(現・ドジャース)や藤浪晋太郎(現・メッツ)と並んで「高校BIG3」と称された左腕の濱田達郎(元・中日ドラゴンズ)がいた。東は背番号「10」をつけて春夏連続で甲子園のベンチ入りメンバーとなったが、計4試合で登板はなし。「やってやるぞ、というよりも先輩たちについてきた感じの甲子園でした」と振り返る。

新チームでエースになると翌年夏、再び甲子園の舞台に戻ってきた。2013年の第95回全国高校野球選手権大会の1回戦、聖光学院戦。2点をリードしていた六回に代打ホームランで1点差に迫られると、七回に逆転を許し3-4で敗戦。「あっという間」に終わってしまったが、この一戦では、長い夏の全国選手権の歴史でもわずかに8度目、東にとっては「人生でまだ一度きり」というトリプルプレーを記録している。無死一、三塁のピンチで相手が仕掛けたスクイズが、東に向かって飛んできた。小飛球をキャッチすると、三塁へ送球。続いて一塁に転送され、トリプルプレーが完成した。

愛工大名電ではエースとしてチームを引っ張った(撮影・朝日新聞社)

立命館大に進学を決めたのは、愛工大名電出身の先輩から「今は左ピッチャーがいないから、来たらすぐに投げられる」と助言を受けたことが一つにきっかけになった。当時は、プロの世界をまったく意識していなかった。「関西の大学を選んだのも、『関東には140キロを投げるピッチャーがざらにいるから、関東の大学で埋もれてしまうよりも関西で投げられる場所で戦う方がいい』と思ったからなんです」

背中で手本を示してくれた桜井俊貴

大学では1年春のリーグ戦から、リリーフとしてデビュー。ただ、1年目は高校野球と大学野球の違いをまざまざと見せつけられたという。「確か1アウトも取れずに交代したときがあったんです。そのときは高校生と大学生の違いを痛感しました。18歳と22歳では、体つきが違うんです」

立命館大の当時のエースは、後に読売ジャイアンツからドラフト1位指名を受けた桜井俊貴(現・ミキハウス)。2学年上の先輩から受けた刺激は、大きなものだった。「桜井さんは完成度と言いますか、すべてにおいて関西ではトップクラスの方でした。練習も『黙々と自分のやるべきことをやる』姿が印象に残っています」。愛工大名電も自主性を重んじるチームで、「自分でやるべきことをやる習慣はすでにありました」と東。大学ではさらにそれが磨かれ、プロに進んだ先輩が背中で手本を示してくれた。

自主トレに励む東。大学時代に自主性の大切さを磨いた(撮影・安藤仙一朗)

だから大学2年で左ひじを痛めても、そのとき必要なことに自ら進んで取り組めた。「けがの期間中はノースローだったので、インナーマッスルをずっとやっていた記憶があります。その期間に体重も8kgぐらい増えて、球速も上がったので、その期間がなければ、今はないかなと思っています」。けがを治して以前の状態に戻すのではなく、復帰したときにはさらにスケールアップして戻ってくる。このときにはすでに、アスリートとして大切な考え方を身につけていたようだ。

プロの世界を意識し始めた大学4年の夏

上級生になると、自らの考えを後輩に伝える立場にもなった。「やるか、やらんかは自分次第だから、周りに流されずに、本当に野球がうまくなりたいなら、ちゃんとやった方がいい、ということはよく言ってました」。桜井がプロ入りし、3年生のときにエースになると、新入生に現在もチームメートの坂本裕哉が入ってきた。「当時(坂本が)試合で投げることはなかったので、今こうして同じチームで野球をやっていることにはびっくりしています。(彼なりに)一生懸命、努力したんだなと」。プロの世界も「個人がどれだけ頑張るか」という点では、大学野球と同じだと坂本に伝えたという。

そんな東がプロ野球の世界を意識し始めたのは、大学4年の夏だった。前年の春には京都大学戦で、最終学年になった翌年は関西大学を相手にノーヒットノーランを達成。個人2度目の偉業はリーグにとって初めてのことで、関西のみならず世代を代表する左腕に成長した。4年の夏には、日米大学野球選手権や台北で開催されたユニバーシアード競技大会に、日本代表として選出。ユニバーシアードでは、金メダル獲得に貢献した。

大学日本代表の活動を通じて「他の選手と話していると、みんな『プロに行く』っていう話をしていて、それで興味を持つようになりました」。2017年秋、横浜DeNAベイスターズから1位指名を受け、プロとしてのキャリアをスタートさせた。

大学日本代表に選ばれプロを意識。見事ドラフト1位指名を勝ち取った(撮影・朝日新聞社)

常に堂々と、ポジティブなイメージで

プロとなってからも、けがをするたびに乗り越えてきた。1年目に11勝(5敗)、防御率2.45をマークして新人王に輝いたが、シーズン終了後に左ひじの炎症が分かり、2年目は春季キャンプでファームからのスタート。開幕後もひじの状態は万全と言えず、7試合の登板にとどまった。3年目に左ひじの内側側副靱帯(じんたい)の再建手術(通称・トミージョン手術)を受け、1年以上に及ぶリハビリを開始。翌2021年シーズンに復帰登板を果たすと、22年は自身初となる開幕投手を任された。そして昨シーズン、24試合に登板し16勝(3敗)、防御率1.98と圧倒的な成績を残し、最多勝のタイトルのほか、ベストナインやゴールデングラブ賞などにも輝いた。

好調だった一番の要因は「メンタル」だったと振り返る。「まずはネガティブにならない。ピンチの場面でも『点を取られたらどうしよう、打たれたらどうしよう』という考えは一切持たずに、常に堂々とポジティブなイメージで投げられるようになりました」。2年ぶりに開幕投手を務める今シーズンは「前回とは立場も違うので、しっかりと地に足をつけていきたい」と意気込む。

思考はいつでもポジティブに。昨年好調の要因をそう振り返る(撮影・上田潤)

最後に、現在けがで苦しんでいる学生アスリートへのメッセージももらった。「けがをすることは仕方ないですけど、その期間に自分の体と向き合って、体に関する勉強をしたり、なぜけがをしたのかや自分に足りない部分は何なのかを考えたりする時間に充てて、取り組んで欲しいと思います」。自身の大学時代がそうであったように、取材では何度も「自主的に取り組むこと」の大切さを説いた。

プロが語る4years.

in Additionあわせて読みたい