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連載: プロが語る4years.

パリバレー・宮浦健人2 鎮西で逃げないこと覚え、早稲田で知恵・体力・筋力を上乗せ

パリでプレーする早稲田大時代の宮浦健人(撮影・松永早弥香)

今回の「プロが語る4years.」はバレーボール日本代表で、現在はパリでプレーしている宮浦健人です。全4回連載の2回目は高校バレーと大学バレーの取り組み方の違いや、早稲田大学で特に力を注いだウェートトレーニングについて語ります。

パリバレー・宮浦健人1 鎮西中の1期生、高校3年で日本一をめざした矢先の熊本地震

慣れるまで「難しかった」大学最初の期間

熊本から東京へ。2017年、宮浦は早稲田大に入学した。男子バレーボール部の同期はマネージャーを含めて5人。うち3人は自らと同じスポーツ推薦だったが、もう1人は理工学部の一般生。日々の練習や試合前、遠征前には1年生がさまざまな準備をしなければならない中、圧倒的に人数が足りない。入学当初を振り返ると「バレーボール以外が大変だったイメージしかない」と苦笑いを浮かべた。目を向け、気を配らなければならないことは山ほどあった。

一方で、1年生の頃から試合出場の機会も得た。オポジットとして、関東大学1部リーグの強豪チームでレギュラーを務めた。どんなブロックもはじき飛ばす現在のようなたくましい姿を想像するが、宮浦自身は「全然違う」と否定する。

「肩が弱かったし、体もうまく使えていなかった。パワーもなかったので、打っても全然決まらない。そもそも鎮西(高校)の時と、打数も違ったので最初はなかなか難しかったです」

決して大げさな言葉ではない。鎮西高のエースは、ほぼ大半のトスがエースに集まる。昨今は日本代表や高校生を見渡しても、ここまでのチームは少ない。だが、どんな状況でも突破する打力と精神力を磨き、チームを勝たせるエースをつくる。それが鎮西高の方針であり、宮浦も高校3年間でエースとしての土台を築いてきた。

それが大学では一変した。1人に打数を偏らせるのではなく、満遍なく攻撃する。大学で勝つことだけでなく、その先につながるベースを築く早稲田大では、鎮西のエースとはいえ特別ではない。状況に応じてセッターは誰に上げるかを判断し、アタッカーは応えるべく常に準備する。「難しかった」と振り返るのは、その状況に慣れるまでの最初の期間だった。

コートに立つ選手たちが満遍なく攻撃するスタイルに少しずつ慣れていった(8番、撮影・松永早弥香)

「高校では最初から打って、打ちまくることで気持ちが上がってきたんですけど、打数が少ないとメンタルも自分でコントロールしないといけない。そこに慣れるまで、どうやっていけばいいのかわからなかったし、難しかったです。でも『置かれた状況の中で自分が何をするか』と考えたり、冷静に見るとどんな状況でも常にブロックが2枚、3枚ついていた高校時代と比べたら、攻撃が分散しているのでブロックの枚数も少なかったりする。明らかにスパイクが決めやすくなったし、このスタイル自体が勝てる形だ、と受け入れられたらすごく楽になりました」

1年目の全日本インカレで、人生初の日本一

環境に慣れ、新たな練習や役割に適応することに時間を費やすことで1日1日が目まぐるしく過ぎていき、あっという間に迎えた最初の全日本インカレ。これもまた修業の場、と言わんばかりに、初戦から大苦戦を強いられた。

当時のチームを率いた主将の喜入祥充(現・サントリーサンバーズ)のリーダーシップや優しさに助けられることも多く「喜入さんたち4年生のために勝ちたいと思っていた」と言うように、気合は十分。だが2回戦は法政大学とフルセット。辛勝でコマを進めた3回戦も大阪商業大学にフルセット勝ち。簡単に勝てる試合など一つもなかった。「とにかく毎試合、全力を尽くした」結果、決勝で筑波大学に勝利し、早稲田大は2013年以来4大会ぶりの優勝を飾った。

全日本インカレ制覇が宮浦自身にとって初の日本一だった(撮影・松永早弥香)

宮浦にとっても、人生初の日本一だった。

「想像できていなかったことなので、本当にうれしかった。マジでうれしかったです」。勝つことの難しさを知るのは、そこからだった。

エースとして、いかなる時も逃げずに決める技と精神力を身につけたのが高校時代ならば、そこに知恵と戦い続ける体力、筋力が養われ、育まれたのが大学での4年間だった。

成長するための方法を教えてもらった4年間

「そもそも体の使い方がわかっていなかった」という宮浦をイチから指導したのがチームを率いる松井泰二監督だ。押しつけられるのではなく、「こういうやり方もある、これがいいんじゃないか」と説かれる中で、「さまざまな発見があった」と当時を振り返る。

「松井先生は『やれ』とは絶対に言わないんです。でも体の使い方や、今なぜそれができていないか、ということを説明してくれて、体の使い方を自然に意識できるような練習を教えてくれるので、スッと頭に入ってきました。高校の頃はとにかくがむしゃらにやってきたけれど、成長するための方法はわかっていなかった。それを教えてもらったのが、早稲田での4年間でした」

松井監督との出会いに加えて「大きかった」と語るのが佐藤裕務・ストレングスコーチの存在だ。技術だけでなく将来につながる選手を育てるため、正しい知識に基づくウェートトレーニングは不可欠。育成年代ではそこに割く時間が少ないチームもある中、松井監督はウェートトレーニングを重視し、佐藤コーチがチーム全体として1年間をかけて成長につながるメニューを提示する。加えて選手個人に対しても必要なメニューを与えた。宮浦は体の変化に伴い、プレー面も明らかに変化していくことを実感した。

トレーニングの大切さを知ったのも早稲田大の頃だ(撮影・平野敬久)

それまでの宮浦は、肩にかかる比重が大きくなりすぎていた。それを体の回旋を使って効果的にスイングをするには、どう動かせばいいのか。ボールに力を伝えるためのジャンプ、ヒットに必要なパワーを生み出す筋肉を鍛えるには、どうすればいいか。一つひとつ、理にかなった指導が宮浦のプレーや意識を変えた。

「1年の頃はストレッチもしていなかったんです。でも2年になって、下級生も入ってきたので練習前の準備に割く時間も減って、自分にフォーカスできるようになった。少しずつ余裕が出てきたことで、ストレッチやトレーニングに対しての気持ちも増していった。『もっとパワーをつけたい、もっと跳べるようになりたい』と思っていたので、どんなに大変なメニューを組まれても、全然苦になりませんでした」

その言葉が決して大げさでないと証言するのは、松井監督だ。学生時代の宮浦を思い返し「あれだけコツコツ努力した選手はなかなかいない」と振り返る。

「早稲田の練習は、それほど長くないし、オフシーズンにはしっかり休みもあります。でも、そういう休みを使って、1人でコツコツトレーニングをする。誰に言われるでもなく、自分が必要だからやる。午前練習を終えて、みんなが帰った後も自分で用意した補食を食べて、午後もずっとトレーニングしていた。ああいう姿勢が、間違いなく今にもつながっているんだと思います」

同じ頃を宮浦も振り返る。なぜそこまでしたのか。なぜできたのか。答えは明白だった。

「リーグ戦がない時期は週に3回、火・木・土とウェート(トレーニング)があって、日曜は午前練習をして、月曜が休み。それならば日曜の午後、ボロボロになるまで体を追い込んで、月曜にしっかり休めばもっと成長できるんじゃないか、それぐらい蓄積しないと足りないと思っていたので、誰よりもめちゃくちゃやってきました」

コツコツと努力を続けた先に、今がある(撮影・平野敬久)

インカレ4連覇をめざすチームの主将に就任

その成果は、形となって現れる。1年に続いて2年、3年でも全日本インカレを制した。3連覇を決めたのは、宮浦のバックアタックだった。「絶対に決めてやると思っていた」という1本で、チームを勝利に導いた。

そして最終学年になった宮浦は、早稲田大の主将となった。高校時代に続く主将の重責。最後の1年、早稲田大史上初の4連覇へ向け、さらなる成長へ向け、すべてを出すべく準備は整った。

そのはずだった。まさか最後の1年に、予期せぬ事態に見舞われることなど、早稲田の「1」を背負うと決めたその時は、知る由もなかった。

パリバレー・宮浦健人3 コロナ禍の早稲田大学ラストイヤー、信頼の厚い同期をともに

プロが語る4years.

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