パリバレー・宮浦健人3 コロナ禍の早稲田大学ラストイヤー、信頼の厚い同期をともに
今回の「プロが語る4years.」はバレーボール日本代表で、現在はパリでプレーしている宮浦健人です。全4回連載の3回目は、新型コロナウイルスの影響を受けた早稲田大学のラストイヤーや大学でしか得られなかった経験ついて語ります。
学校生活が止まり、先の見えない日々
宮浦が早稲田大の主将になった2020年シーズン。春先から新型コロナウイルスの影響が日本国内でも色濃くなり、4月には緊急事態宣言が発令され、それまでの日常は一変した。
家から出られず、授業はリモート。学校生活もストップし、当然バレーボール部としての活動にも大きな制限がかかった。人と人が集まって密をつくることが感染リスクとされ、チームスポーツは選手やスタッフが集まって練習することもかなわず、ボール練習やウェートトレーニングも各自で行わなければならなくなった。練習が再開されてからも、公式戦は軒並み中止になり、ようやく再開された秋季リーグも、参加校に陽性者が増えれば中止に。先が見えない毎日が続いた。
全日本インカレで4連覇がかかる最後の1年。意気込んでいたのは主将の宮浦だけでなく、同期の仲間も同じだった。苦楽をともにしてきた副将でミドルブロッカーの村山豪(現・ジェイテクトSTINGS)、セッターの中村駿介(現・パナソニックパンサーズ)と最後の1年を満足した成果を残して終え、次の早稲田へとつなぐべく、日々コミュニケーションを取り合い、高め合ってきた。
「4年生として、やるべきことをやります」
特にセッターの中村にとって、チームの点取り屋であり、主将も務める宮浦は何より頼れる存在だった。攻撃陣がそろうだけに、決まらなければ矛先を向けられてしまうポジションで、かつアタッカーの一人ひとりから、求めるトスやタイミングもぶつけられる。特に3連覇を果たした3年時の全日本インカレは中村が「一番しんどかった」と振り返る大会だった。
「大げさじゃなく、どこに上げたらいいかわからなくなっちゃって。セッターとしては『このタイミングで使いたい』と思うけれど合わないこともあるし、スパイカーからしたら『今じゃない、ここだ』というタイミングもある。上げても合わなかった時に『次も合わなかったらどうしよう』と思って、使うのも怖くなる。でもそういう時に助けてくれるのが宮浦でした」
次はどうしようか。頭が混乱しそうになっていた時、宮浦が中村にこう言った。
「どこに上げるかわかんなくなったら、持ってきて。適当に上げてくれればいいから」
そのひと言に心底救われたと語る中村に対して、宮浦の考えはこうだ。
「まず大前提としてセッターの組み立てをリスペクトしているし、セッターってすごく難しいポジションじゃないですか。だからそこで『自分に上げてくれ』とか要求ばかり言うんじゃなく、自分は上がってきたボールを決めるのが仕事。だから、迷ったら持ってきていいよ、って。僕の中では何か特別なことをしたという意識はないんです」
セッターにとって、これほどありがたいことはない。卒業から3年が過ぎた今も、当時を思い返し、中村が言った。
「困ったら全部健人に上げるし、そこで絶対に決めてくれる。いつも頼れる、でかい背中でした」
いざ最後の全日本インカレへ気持ちを向けようとしても、現実を見ればコロナ禍が終息する気配はない。それどころか、大会自体の開催も危ぶまれた。村山が「これ以上頑張れる気力がない」と弱音を吐き、実際に練習を休んだこともあった。
そのままフェードアウトしてもおかしくないぐらい落ち込んでいた、という村山に再び前を向かせたのも宮浦だ。3人の4年生と松井泰二監督とのミーティングの場が設けられ、宮浦はこう言った。
「自分は4年生として、やるべきことをやります」
目標が見えない中で頑張ることに疲れていた、という村山は、その時のことを今でもはっきり覚えていると笑う。
「健人が弱音を吐くのは聞いたことがないし、やると言ったらやる。だから僕も、健人が頑張る姿を見ていたらやらなきゃ、と思ったし、練習を休んで(体育館の)スタンドから見ていたら、『こんなつまらない練習しているぐらいなら、自分が入らなきゃダメだ』って。終わった後、健人に『今日の練習、つまんなかった』って言ったら、じゃあやれよ、って笑われました」
1セットも失わず、有終の美
2020年11月30日、全日本インカレが開幕した。出場校数も例年より絞られ、選手は入場時に全員が検温。当然無観客で、少数の関係者しか入れない厳戒態勢とも言うべき状況で開催された。主将として臨む宮浦の心は決まっていた。
「周りからは4連覇と言われましたけど、負けちゃいけない、というプレッシャーはなかった。それ以上に僕にとって、早稲田大として大切なのは、全部出し切ること。松井先生からも常に試合や練習で『全部出せ』と言われ続けてきて、その先に勝ち負けがある、と。全部出したうえで勝てば最高、もし負けたとしても相手が上回っていたのかもしれないし、自分の力がまだ足りない、というだけなので、とにかく全部出すこと。それしか考えていませんでした」
初戦の九州共立大学戦から危なげなく勝ち進み、3回戦は大阪産業大学、準々決勝は近畿大学、準決勝は順天堂大学に勝利。決勝では日本体育大学に勝ち、終わって見れば失セット0の完全優勝で、4連覇を達成した。
前年の3連覇はバックアタックで決めたが、4連覇を決めた最後の1点は宮浦のサービスエース。最高のフィナーレを飾り、MVPにも選出された。まさにすべてを出し切ったと証明するエピソードもある。
「試合が終わって集合した時に、立っていられなくなっちゃって。高校時代から、全部出し切った試合の後、集中力がぷつっと切れた瞬間に貧血っぽくなりがちなんです。その時もまさにそうだった。本当に、全部出し切りました」
一時は開催すらも危ぶまれた大会を無事に終え、大学生活を終えた。コロナ禍の1年間には、新入生で鎮西高(熊本)の後輩にあたる水町泰杜(現・ウルフドッグス名古屋)が加わり、2学年下には大塚達宣(現・パナソニックパンサーズ)もいた。豊富な攻撃陣に加え、リベロに荒尾怜音(現・ヴォレアス北海道)もいる布陣で「もっと多く試合がしたかった」という悔いは残ったが、それ以上の後悔がもう一つある。
「大学時代、同じ学年や、後輩がどんどん選ばれて世界へ行く中で、自分はなかなか日本代表に選ばれなかった。そこに対する悔しさは、ずっとありました」
早稲田で学んだたくさんの知識が今につながった
本来ならば大学ラストイヤーの2020年に開催されるはずだった東京オリンピックは翌年に延期された。その場に現役大学生として髙橋藍(現・イタリア・モンツァ)や大塚が選出された一方、宮浦は候補選手にも入れなかった。
高校や大学でU18、U20に選出されるなど、アンダーカテゴリーの日本代表では数々の華々しい戦績を残してきた一方、シニア代表には呼ばれない。同じ左利きのオポジットで活躍する西田有志(現・パナソニックパンサーズ)について「すごい、と思ったしリスペクトしてきた」と言いつつ、自分と差が広がっていくことが悔しかった。
ただ、西田と同じように高校を卒業してすぐにプロの世界へ飛び込めばよかったのではないか、と考えることはない。それほど早稲田大でしか得られなかった多くの財産が、いまの宮浦の大きな武器になっていると実感している。
「(日本代表に)選ばれない悔しさはありましたけど、自分がもし高卒でVリーグに進んでも通用しなかったし、今のレベルに達することはできなかった。大学で専門知識を持つ先生方や、バレーボール部のスタッフの方々、教職課程の中で受けた授業から学んだたくさんの知識が今の自分につながった。すべて早稲田大で得られたものがたくさんあるんだ、ということを示していきたいです」
やる時はやる。有言実行の男だ。その姿をいかんなく発揮したのが、2023年だった。