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連載: プロが語る4years.

特集:WBC戦士と4years.

WBC決勝先発、今永昇太の駒大時代 1年春デビュー戦は「ど真ん中に真っすぐ」だけ

駒澤大学では「大学ナンバー1左腕」とまで呼ばれた(撮影・坂名信行)

第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)が3月21日(日本時間22日)、アメリカ・マイアミで日本とアメリカによる決勝が行われます。日本の先発を託されたのが今永昇太投手。東都大学野球リーグの駒澤大学から、2015年秋のドラフト1位でベイスターズに入団し、第一線で活躍しています。駒大時代の経験や、それがプロの世界でも生きていること、現役学生アスリートへのメッセージを前後編の2回に分けてお届けします。前編は鮮烈なデビューとなった大学1年目の春と、それを支えた先輩についてです。

【特集】WBC戦士と4years.

「琉球トルネード」に憧れて

福岡県北九州市で生まれ育ち、地元の北筑高校野球部に所属していた今永には、1学年上に憧れの存在がいた。2010年、史上6校目となる春夏の甲子園大会を連覇した興南高校(沖縄)のエース左腕・島袋洋奨さんだ。右足を上げた際に体を大きく左にひねる投球動作は「琉球トルネード」と呼ばれ、当時は身長173cmと小柄ながらも力強い速球を武器にしていた。

プロとなった現在でも「暇さえあれば、YouTubeでいろんなピッチャーの映像を見て、自分にいろいろ当てはめてみる」という今永。島袋さんについては、「投げている試合は、全部録画していました。僕が家にいない時は、お母さんが録画してくれました」と振り返る。

島袋さんは興南高校を卒業後、東都大学野球連盟に加盟する中央大学に進学した。今永が駒大に進んだのも、島袋さんの存在が大きかった。

北筑高校時代も福岡県内では名が知られた投手だった(撮影・関田航)

「僕も初めは中央大学に行きたかったんです。でも、声がかからなかった。その中で駒澤大学から声をかけてもらって、いろいろ調べていくうちに、ものすごく伝統のある大学で、素晴らしい先輩方がたくさんいることを知って、『光栄なことだな』と思い、決めました。東都大学野球リーグに行けば島袋さんも見られますし、自分が目指しているプロ野球の世界にも一番近いんじゃないか、とも思いました」

北筑高校時代は全国の舞台に縁がなく、「甲子園の“こ”の字も夢に見られなかった」。最後の夏は、福岡大会の4回戦で敗れた。ただ東都大学野球リーグに進めば、甲子園経験者を始め全国レベルの選手たちが集まってくる。「どんなレベルなんだろう。その中で自分はどれだけ通用するんだろう」と、わくわくした気持ちで入部した。

自分に課したメニューはやり遂げる

完全下校が午後7時半と決まっており、限られた時間内で部活動をしていた高校時代は、「何でもかんでも詰め込んで、練習しないといけない感じでした」。それに比べたら、駒大での練習は「毎日時間はできたので、『今日はこれ』というところをプランニングして、一つずつ進めていけた」という。

当時の駒大は「一つのことをみんなでやるような練習内容」。投手であれば、球場のレフトポールとライトポールの間を全員で10往復したり、班に分かれてグラウンドの外周を走ったりすることが多かった。一方で「やる・やらないは、割と自分で決められた」というウェートトレーニングは、「正直、特に必要ないものなんじゃないかという考えで、あまりしなかったです。当時は知識が乏しかったので、ウェートをすると体のしなりがなくなるとか、浅い知識しかなかった。今、そんな考えは全くないですけど」

他人と比べて、苦しいほど練習をしたと言えるほどの自負も、記憶もない。ただ、自分に課したメニューについては、数字をごまかしたり、「今日はこれでいいや」とさぼって練習を切り上げたりしたことは、決してなかった。

「例えば授業が2限で終わったとします。その後、昼からの練習は当時、監督もコーチも、誰も見ていませんでした。そういう時でも『20本走る』と決めたら、絶対に20本走っていました。誰も見ていないからいいや、ということはしなかったです」

「ど真ん中に真っすぐ」だけのデビュー戦

東都でのデビュー戦は、1年生春の5月16日、日本大学戦だった。今永はこの初登板が、大学の4年間で最も印象に残っている場面だという。それだけに記憶も鮮明だ。

駒大時代、神宮のマウンドで力投する今永(撮影・坂名信行)

「八回裏2アウトランナー、一、二塁からリリーフ登板して、デッドボールを当てて(満塁から)三振を取った。九回は三者連続奪三振だったんです。周りからは『衝撃的デビュー』みたいな形で採り上げていただいて、そこが自分のターニングポイントだったかなと思います。打たれたり良くない結果だったりしたら、最初のスタートとしては苦しかった。『自分はこれぐらいやれば、東都でも通用しそうだな』というのが、ちょっとだけ見えた始まりだったかなと思います」

当時、駒大のレギュラー捕手で4年生だった戸柱恭孝は、「ど真ん中に真っすぐ」のサインしか出してくれなかった。「1年春の時はオール真っすぐでした。僕はその時、変化球が全然ダメで、真っすぐしかストライクが入らなかった。初めてマウンドに上がって、誰も僕のことを知らないから打ち取れたけど、おそらく今永という投手の輪郭が分かって、相手バッターが慣れてきたら、簡単に打たれるだろうなと。真っすぐだけじゃ通用しないので、他の変化球にもちゃんと目を向けて練習しようと気づかせてくれました」

戸柱は今やベイスターズのチームメートで、15年秋のドラフト同期生でもある。「戸柱さんは『あの時の真っすぐが、今までで一番いい』っていつも言ってます。『あれ以上のものはない』と。僕も当時のストレートを目指していますし、投げた時の感覚は今でも覚えていますね」

今永(前列左から2人目)と戸柱(前列右端)はともに2015年秋のドラフト会議で指名された(撮影・杉山高志)

痩せてしまった状況を先輩が救ってくれた

1年生の頃は、グラウンド整備や寮の風呂掃除など、野球以外の仕事も多かった。中でも「駒澤の名物的なもの」と言うボールを1球1球丁寧に磨く作業は特に時間がかかり、ときには眠りにつく時刻が夜中の0時を過ぎることもあった。忙しさが苦しさに変わった状況を救ってくれたのも戸柱だったと、今永は回想する。

「野球の練習と仕事がつらかったこともあって、1年の秋ごろにちょっと痩せてしまった時期があったんです。その時、戸柱さんが夜にコンビニへ一緒に連れていってくれて『痩せてんだから、好きなものを好きなだけ買え』と言ってくれた。いろんなものをごちそうしてくれた記憶がありますね」

1年生の今永にとって、4年生の戸柱は見上げる存在だった。「大人でしたし、レギュラーとしてずっと試合に出ていた方なので、近寄りがたい雰囲気はありました。でも試合になると、コミュニケーションを取ってくれていました」。戸柱はこの頃から、今永の能力と練習に取り組む姿勢を評価し、チームの将来を背負う存在と認めていたのかもしれない。

今永は2年生の春からエース格となった。

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※最初の記事公開は2022年2月。WBC決勝進出を受けて修正しました。

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