青山学院大で号泣した試合、トヨタで「野性をもっと開放しろ」 名古屋D・張本天傑3
今回の連載「プロが語る4years.」は、男子バスケットボール日本代表として昨夏の東京オリンピックにも出場した名古屋ダイヤモンドドルフィンズの張本天傑(てんけつ、30)です。名古屋は昨シーズン、BリーグCS(チャンピオンシップ)進出を果たしました。4回連載の3回目は、青山学院大学3年生の時の忘れられない試合と、卒業後にトヨタ自動車アルバルク(現・アルバルク東京)に入団した時のお話です。
「俺たちはなぜ勝てなかったんだろう」
試合の後、あんなに泣く人を見たことがなかった。それも同時に2人も! 場所は代々木第二体育館。2012年インカレ決勝戦直後のことである。優勝した東海大学の狩野祐介主将(現・滋賀レイクス)は試合終了のブザーが鳴った瞬間、床にひれ伏し、起き上がるのを忘れたかのように泣き続けた。敗れた青山学院大のメンバーの目には悔しい涙があったが、その中で声を上げんばかりに号泣する選手が1人。それが3年生の張本だった。
3年連続三冠王を目指す青山学院大はエース比江島慎(現・宇都宮ブレックス)を中心に揺るぎない強さで春のトーナメント、秋のリーグ戦を制覇。残すは最後のインカレのみとなり、それさえも「抜きん出た力で青学の優勝だろう」という見方が大半を占めていた。それなのに俺たちはなぜ勝てなかったんだろう。あの時、自分に何度も問いかけた答えを今、張本はこう語る。
「やっぱり“勝って当たり前”というプレッシャーはかなり大きかったと思います。ましてや3年連続の三冠がかかる試合という重圧は想像していたよりずっと大きかった。それになんて言うんでしょうか。判官びいきじゃないですけど、勝ち続ける青学に挑む東海大を応援したいという心理がお客さんの中にあったような気がします。僕たちはまるでアウェーで戦っているみたいでした。気がついたら試合が終わっていた。終わった瞬間、ハッとして負けたことに気づいた。そんな試合でした。泣いたのは肩を落とす先輩たちを見たからです。自分は先輩たちを勝たせてあげられなかったんだと思ったら、申し訳なくて、悲しくて、悔しくて、自分でもびっくりするほど号泣しました」
学生ラストイヤーに大けが
青山学院大に入って初めて味わった挫折感。だが、張本の試練はこれにとどまらず、翌年にはさらなる苦境と向き合うことになる。前十字靭帯(じんたい)断裂という大けがを負ったのは新チームになって間もない春のトーナメントだ。決勝戦、残り3分。痛みより先に目の前が真っ暗になった。
最終学年を迎えた張本が名実ともにチームの柱だったのは言うまでもない。中、外どこからでも点が取れるオフェンス力はもとより、今も記憶に残るのは張本を真ん中に据えた3-2のゾーンディフェンスだ。しかけてくる敵の侵入を許すまいと待ち構える張本は、相手からすれば非常に厄介で屈強な門番だったに違いない。トーナメントは何とか勝ち切ったものの、柱を失った青山学院大は秋のリーグ戦で苦戦を強いられることになる。
「リハビリには5カ月要しました。前十字靭帯を切って5カ月で戻れたのはすごいスピードだと言われましたが、自分には長かった。その間にもできることは何でもやりたいと思って、試合ではベンチの端で大声を上げて応援しました。でも、ほんとはすぐにでもコートに飛んで行きたかった。それができないことがもどかしくて、悔しくて、あんなにバスケがしたいと思ったのは初めてでした」
インカレの1カ月前にようやくコートに復帰するも状態は万全とは言い難く、本来のパフォーマンスを発揮できないまま最後のインカレは3位に沈んだ。前年に続いて大会を制した東海大の歓喜を横目で見ながら様々な感情が胸をよぎる。MVPに輝いた田中大貴(現・アルバルク東京)の笑顔がやけにまぶしく見えた。
トヨタで学んだプロ選手としての在り方
当時のNBLでは大学卒業を待たずチームに入団することをアーリーエントリーと表した。張本もまた、インカレ終了後にトヨタ自動車アルバルクに入団したアーリーエントリー選手の1人だ。同様にこの年、アーリーエントリーでトヨタに入団したのは田中大貴と宇都直輝(現・バンビシャス奈良)。張本にとってはいずれも気心が知れた選手であり、「チームメートになれたことがすごくうれしかった」と言う。
「大貴と初めて一緒にプレーしたのはU-18のアジア選手権で、その後も学生代表や日本代表でユニバーシアードとかジョーンズカップとか、いろんな大会を一緒に戦いました。大学では常にライバルだったから、あいつがどんなにすごい選手だというのは誰より分かっていたつもりです。いつか同じチームでプレーしたいなという気持ちもありました。考えたら、それもトヨタに行こうと思った理由の一つだったかもしれません」
トヨタの練習は毎日が刺激的だった。ジェフ・ギブス(現・長崎ヴェルカ)、竹内公輔(現・宇都宮ブレックス)、フィリップ・リッチー、高橋マイケルなどパワー、サイズ、スキルで上回る先輩選手の中で、いかに自分の持ち味を発揮できるかを考える日々だったという。
「当時のヘッドコーチは伊藤拓摩さん(現・長崎ヴェルカHC)だったんですが、拓摩さんからよく言われていたのは『野性の力をもっと引き出せ』ということです。野性の力っていうのは本能的な力という意味だと思うんですが、『おまえの野性をもっと開放しろ』みたいな言い方をされましたね。求められているのはストレッチ4(インサイド中心にプレーするパワーフォワードをアウトサイドに据え、インサイドにスペースを作る戦術)の動きだと思っていて、先輩たちに負けないようガツガツやっていこうと、野性の力を発揮しようと(笑)。そこは常に意識していました」
体作りに悩み、プレータイムに悩み
しかし、そのやる気と裏腹に自分の中に迷いが生じることもあった。先輩のパワーに負けないためにはもっと体を大きくした方がいいのではないか。いや、体重を増やしたら、自分の持ち味である機動力が減少してしまうのではないか。
「そのバランスをどうとればいいのか悩んだ時期がありました。でも、迷いながらプレーしていると正中(岳城)さんに怒られるんです。青学の先輩でもある正中さんはめっちゃ怖いんですよ(笑)。けど、言われることは正しい。自主練ではいつも一番早く体育館に来て、一番最後まで練習している姿もみんなのお手本でした。それは祥平(菊地、現・越谷アルファ―ズ)さんも同じで、祥平さんは怖くなかったけど(笑)、あの2人にはプロ選手としてあるべき姿勢を教えてもらった気がします。それもまたトヨタに入って得たものの一つですね」
だが、翌年になると移籍加入したマイケル・パーカー(現・群馬クレインサンダース)が帰化したことで張本のプレータイムは伸び悩んだ。名古屋ダイヤモンドドルフィンズへの移籍を決めた一番の理由は、「もっとプレータイムが欲しかったから」だという。
「愛知県は自分の故郷でもあり、声をかけてくれた当時のヘッドコーチ梶山(信吾)さんも信頼できる方なので、1度決めたら迷いはなかったですね。名古屋へ行って、チームを強くするワンピースになりたいと思いました」
24歳で目指すと決めた新天地。張本は自分の胸に新たな闘志が湧いてくるのを感じていた。