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連載: プロが語る4years.

青山学院大「期待の新人」は先輩に鍛えられ“その先”を切り拓いた 千葉J・荒尾岳2

身長198cmの荒尾は「期待の新人」として青山学院大に迎え入れられた(撮影・柏木恵子)

今回の連載「プロが語る4years.」は、仙台89ERSから4シーズンぶりに千葉ジェッツふなばしに帰ってきた荒尾岳(35)です。4回連載の2回目は青山学院大学バスケットボール部での出会いと、大学4年間で得たものです。

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高さと走力を兼ね備えた期待の新人

荒尾が青山学院大に入学した当時の大学バスケ界は留学生の数こそまだ少なかったが、竹内公輔(当時・慶應義塾大、現・宇都宮ブレックス)、竹内譲次(当時・東海大、現・大阪エヴェッサ)、太田敦也(当時・日本大、現・三遠ネオフェニックス)など身長2m超の有力選手が揃(そろ)っていた時代であり、198cmの荒尾はそれに対抗する「期待の新人」として迎えられた。青山学院大のゴール下を担った4年生の佐藤託矢(198cm)の控えとして起用されるようになり、1年生ながら徐々に存在感を示していく。単にサイズだけではなく、走力があったことも青山学院大の「走るバスケット」にいち早くアジャストできた要因だと言えるだろう。

だが、当然のことながら青山学院大で求められる走力は高校時代の比ではなく、トレーニングの厳しさもまた想像以上だった。

「今でも青学に入って一番きつかったなあと思うのはランニングです」と本人が振り返るように、通常の練習が終了した後、吉本トレーナーの号令の下に始まるランニングメニューは、体育館を2往復してハーフラインまで走る通称「2.5」を1セットとして、そのセットを10本、12本、14本と繰り返すハードなもの。「それまで自分はまあ走れる方だと思っていたんですが、練習終了後にやるあのランニングはさすがにめちゃくちゃきつかったです。吉本さんは厳しくて怖かったし(笑)」

「負けず嫌いコンビ」の先輩

怖かったのは吉本トレーナーだけではない。荒尾とってもう1人怖い存在だったのは2年先輩の正中岳城だ。

当時3年生の正中は、岡田優介(現・アルティーリ千葉)とともに心技でチームを引っ張る「負けず嫌いコンビ」として知られたが、荒尾のプレーにもよく目を配り、ときには厳しい言葉が飛ぶこともあったという。「あの頃の自分は試合になると瞬間湯沸かし器になることがあった」という荒尾が審判に詰め寄ってテクニカルファウルを取られた時は、「大事な場面で試合を壊してどうする」と怒られ、「今度やったら坊主だからな」と、岡田に釘を刺された。今、手元にある荒尾が2年生だった時の大会プログラムを見ると、そこにいるのは丸刈り頭の荒尾。そうかあ、そういうことだったのか。

「岡田さんも厳しかったですけど、やっぱり自分が1番怖かったのは正中さんですね。怒るというより核心を突いたことズバッと言われるんです。兵庫県出身の正中さんにコテコテの関西弁でズバッと言われると、なんか怖さが倍増しました(笑)」

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では、その正中は荒尾にどんな印象を持っていたのだろうか。最初に返ってきたのは「かわいい後輩でしたよ」の一言。「強豪校からやってきた選手の“やってやるぜ感”はなかったですけど、その分、言われたことは全力で頑張る真面目さがありました。田舎育ちのせいか素朴で、すごく素直なんですね。青学には渋谷と淵野辺(神奈川県相模原市)に体育館があるんですけど、都心の渋谷と比べると淵野辺ははっきり言って田舎。拓(ひら)けたところではありません。ところが、初めて淵野辺駅に降り立った岳はその瞬間、『ああ俺は都会に来たんだ』と感激したらしいです(笑)。本人が意図しないところで周りを笑わせてくれる男でした」

荒尾が丸刈り頭だったのにはわけがあった

その一方で、選手としての荒尾には大きな伸びしろを感じていたという。

「まずすごいと思ったのは、あのサイズで走力があることですね。次に天性とも言えるブロックのうまさ。ビッグマンにありがちな……というと語弊がありますが、サイズがあることへの甘えもなく、ゴール下でしっかり体も張れる。対戦した他のチームのビッグマンにとってかなりやっかいな存在だったはずです。こいつはまだまだ伸びるなあと思っていました」

大学の4年間で得たものは「選手としての自信」

自分に対するそんな評価を知ってか知らずか、当の荒尾は「自分より高さもパワーもある公輔さんや譲次さんとマッチアップする時は必死でしたね」と振り返る。「ゴール下で少しでも気を抜くと押し出されてしまうので、気合を入れて体を張るというか。1年生からそう経験ができたのはラッキーだったと思っています」

まだウェートトレーニングの設備が整う大学が少なかった時期、充実したトレーニングルームで体を作れたことも青山学院大に進んで良かったと思うことの一つ。自分のプレーをしっかり見てくれる監督、トレーナー、先輩に出会え、弱点に向き合えたのも少数精鋭の青山学院大だったからこそ。入った年にインカレ準優勝、3年生でインカレ優勝を経験し、学生代表メンバーとしてジョーンズカップをはじめとする数々の国際大会の舞台を踏むこともできた。

「自分は田舎の無名高校出身だったので、自分の力(のレベル)がどれぐらいなのかとか、どれぐらい通用するのかまったく分からず青学に来たんですね。自分なりに負けてたまるかというのはあるつもりなんですが、それを表に出すことが苦手で、いつも『もっと我を出せ』と言われてました。けど、毎日の練習にせよ、試合にせよ、自分がやるべきことはやり切ろうと思っていたのは本当です。少しずつ自信がついていったのは周りの人に恵まれ、いろんな経験をさせてもらったことが大きい。4年間で得たものはいろいろありますが、やっぱり1番大きいのは選手としての自信かもしれません」

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青山学院大からトヨタへ

言い変えれば、それは「これからの人生をプロとしてやっていけるかもしれない」という自信。4年生の時にトヨタ自動車アルバルク(現・アルバルク東京、当時JBL)からオファーをもらい、入団して間もなく若きA代表として第5回東アジア競技大会に出場したことも、その自信を裏打ちするものとなった。

当時のトヨタには元NBA選手のチャールズ・オバノン、高橋マイケル、古田悟(現・山梨学院大学監督)という強力なインサイド陣が居並び、その一角にどう食い込むかが課題の一つと言えたが、正中、岡田、その下には熊谷宜之ら青山学院大の先輩がいたことは心強く、不安はあまり感じなかったという。「不安を感じないというより、不安を感じるほど新しい世界を知らなかったというのが正しいかもしれません。トヨタでの1年目は何も考えず、ただただガムシャラにやっていたような気がします」

荒尾の中に変化が生じたのは1年後。新しい指揮官にドナルド・ベック氏(現・熊本ヴォルターズ指導者養成コーチ)が就任した時だった。

「ベックさんが来て、戦略、戦術が大きく様変わりしたことでプロとしての在り方を考えるようになりました。恥ずかしい話ですけど、これからの自分について考え、しっかり向き合ったのはあの時が初めてだったと思います」

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