バスケ

連載: プロが語る4years.

「じいちゃんが引き留めてくれた」強豪ではなく、縁を感じた習志野へ 千葉・原修太1

同世代に有力な選手が多くいる中、原が歩んできた道は特殊なものだった(写真提供・B.LEAGUE)

今回の連載「プロが語る4years.」は、国士舘大学4年生の時から千葉ジェッツふなばしに加入し、2020-21シーズン、チームメートとともに悲願のBリーグ初優勝を成し遂げた原修太(27)です。2019年からは3x3のTOKYO DIMEの所属選手としてもプレーしています。4回連載の初回はバスケットボールと市立習志野高校(千葉)との出会いについてです。

ちょっと特殊な「富樫世代」

スポーツ界にはときおり、有力な選手が数多く出現する年代がある。バスケ界では富樫勇樹(千葉ジェッツ)を筆頭とする1993年(1994年)生まれの選手たちがいい例と言える。ベンドラメ礼生(サンロッカーズ渋谷)、小島元基(アルバルク東京)、鵤誠司(宇都宮ブレックス)、田渡凌(三遠ネオフェニックス)、橋本晃佑(シーホース三河)、田代直希(琉球ゴールデンキングス)、岡本飛竜(新潟アルビレックスBB)など現在Bリーグで活躍する「富樫世代」の選手たちの顔ぶれは豪華だ。今や千葉ジェッツの主力と目されるようになった原修太もその中の1人だろう。

しかし、前述した選手たちと大きく異なるのは、進んだ高校がバスケの強豪校ではなく、ほぼ無名であったこと。大学には進まずバスケをやめていた可能性もあったということ。そんな原が“現在の原修太”になるまで、いったい彼はどんな道のりを歩いてきたのだろう。語ってくれた話の中にあったのは出会うべき場所で出会うべき人と出会った、いくつものミラクルだった。

バスケの強豪校には進みたくなかった

千葉ジェッツには生まれた時から縁があったのかもしれない。原が生まれ育ったのは千葉県船橋市、実家は千葉ジェッツのホーム会場でもある船橋アリーナから徒歩圏内にあった。「自分がミニバスを始めたのは小学3年生なんですが、その時から船橋アリーナで試合をしてたし、遊びのバスケでも使うことがありました。自分にとってはすっごく身近な場所でしたね」

姉と妹に挟まれた3人きょうだいの真ん中。小さい時はどんな子でした?と尋ねると、「泣き虫でした」と即答した。

「何が原因かはよく覚えてないんですが、とにかくよく泣いていましたね。記憶にあるのは小学1年生の時かな。お母さんが買ってきてくれたジーパンを履くのがイヤでめちゃくちゃ泣きました」

そんなことで泣いていたのか。

「そんなことで泣いていました(笑)。ジーパンのあのゴワゴワ感がイヤだったんでしょうね。それから中学に入るまで1回もジーパン履かなかったですから」

友だちとケンカをした記憶はほとんどない。そもそも人と言い争うことが苦手だった。

「自分がちょっと変わったのは6年生ごろかな。うちの小学校と近くの小学校が合併して部活にやんちゃなやつらが入ってきたんです。監督もいきなり厳しい人に変わって毎日怒られてしょっちゅう泣いてました。けど、それでもやんちゃで明るいやつらとバスケをするのが楽しくて、少しずつ自分を出せるようになっていった気がします。そこからチームも強くなって全ミニ(全国ミニバスケットボール大会)に出ることもできました」

泣き虫で人と争うのが苦手だった原(左)は、バスケを通じて少しずつ自分を出せるようになったという(写真提供・B.LEAGUE)

そうは言ってもバスケが特別好きだったわけではない。ミニバスの友達が中学校でも続けると言ったから続けただけで、正直、バスケ部員でありながらバスケにはあまり興味がなかった。180cmまで伸びた身長を買われて県の選抜メンバー候補に選ばれることはあっても、決まって一次選考で落選。

「県大会に出たこともなかったので、千葉県のどこのチームが強いかなんて全然知らなかったし、全中のことなんてもっと知らない。自分たちが3年の時の全中決勝で勇樹(富樫、本丸中学校)と凌(田渡、京北中学校)がすっげーいい試合をしたと知ったのも大人になってからでした」

当然、強豪高校に進学して全国大会を目指そうなどという野心は欠片(かけら)もない。地元には市立船橋という全国大会常連高校があるが、「ちょっと想像しただけで自分が付いていけるレベルじゃないと分かるじゃないですか。仮に入れたとしても3年間試合に出られないで終わるだろうし、そんな強い学校には行きたくなかったです」。市立柏高校から誘われた練習見学を断ったのも同じ理由だ。「市立柏も千葉の強豪校で練習がめっちゃ厳しいと聞きました。じゃあ行くのはやめようと」。高校でバスケを続けるとしても3年間それだけに明け暮れる生活は送りたくない。“そこそこ強い学校”で“そこそこ活躍して”、仲間たちと楽しんでバスケをやりたい。当時の原が望んでいたのはそんな高校生活だった。

じいちゃんがつないでくれた不思議な縁

思い描く学校が見つからなかったらそのままバスケをやめていたかもしれない。「もしかするとじいちゃんが引き留めてくれたのかな」と、今も思う。

大好きな祖父が亡くなったのは中学3年生の5月のこと。幼いころから自他ともに認める“じいちゃんっ子”だった原の悲しみは「とてつもなく大きかった」が、同時に「とてつもなく驚いた」のは通夜に集まったバスケ関係者の人数だった。「多分300人ぐらい来てくださったと思います。じいちゃんはバスケットとは関係ない人生を送ったごく普通のじいちゃんなんですよ。なのになんでこんなにたくさんの人が弔問に来てくれるのか分かりませんでした」。後に知ったのはその弔問客の多くが習志野高校バスケ部の関係者だったことだ。知った瞬間、「ああ、そうか」と腑(ふ)に落ちるものがあった。

「じいちゃんには仲がいいマージャン友達がいて、その人は昔、習志野高校でバスケットを教えていました。じいちゃんがよくその人を車で試合会場まで送りに行ってたことを思い出したんです」

大好きなおじいちゃんが習志野高校バスケ部を引き合わせてくれた(写真提供・B.LEAGUE)

そう言えば、自分も祖父に連れられて習志野の試合を応援しに行ったことがある。あれは幼稚園のころか、小学校に上がったばかりのころか。集まったバスケ部OBたちが口々に語るのは、「現役時代に本当にお世話になった」「何度もごちそうしてもらった」という話。還暦を過ぎた祖父が高校生たちを連れてファミレスに向かう姿が浮かんだ。「じいちゃんは定年後も仕事を続けていたから、きっとその給料でごちそうしてたんじゃないかなぁって」

祖父自身、それを楽しんでいたのかもしれない。そう考えると、習志野のバスケ部が急に身近なものに感じられた。“じいちゃんのマージャン友達”だった鈴木礼三さんが外部コーチとして再びバスケ部に復帰すると聞いたのはそのタイミングだ。不思議な縁を感じた。じいちゃんがつないでくれた縁。「習志野に進学して、習志野でバスケットをしたいと思ったのはその時だったかもしれません」



プロが語る4years.

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