「運が良かった」国士舘大1年で主力、池内泰明監督との出会いで変化 千葉・原修太3
今回の連載「プロが語る4years.」は、国士舘大学4年生の時から千葉ジェッツふなばしに加入し、2020-21シーズン、チームメートとともに悲願のBリーグ初優勝を成し遂げた原修太(27)です。2019年からは3x3のTOKYO DIMEの所属選手としてもプレーしています。4回連載の3回目は国士舘大時代についてです。
「Bチームで3年間」のはずが半年でスタメンに
国士舘大に入学する直前に原が参加した合宿は本来、「バスケ推薦の新入生に限る」とされていた。よって指定校推薦の原には参加資格がなかったわけだが、「初めての合宿には絶対行った方がいいよと教えてもらったこともあり、お願いして特別に参加させてもらったんです」
ところが、ここで一番いいパフォーマンスを見せたのは飛び入り参加の原。「インカレ終了後の1月、2月がオフとなる大学生はこの時期どうしても体がなまっているし、逆に大学入学を視野に入れてトレーニングを積んできた新入生は元気です。その差がちょっと出ただけで……」と本人は控え目だが、いきなり「Aチームに行け」と言われた理由は決してそれだけではないだろう。
初めてじっくり原のプレーを見た監督は彼の中に高いポテンシャを感じたのではないか。それを実証するかのように新人戦で二桁得点をマークした原は、秋のリーグ戦からスタメンに抜擢(ばってき)される。入学してからわずか半年。「3年間はBチームで頑張ろう」と誓った日がはるか昔に思えるほどのスピード出世だった。
シュート力を引き出してくれた先輩ガードたち
「僕は運が良かったんです」。大学時代を振り返りながら原は何度もそう笑う。新人戦で活躍できたのは、同じポジションの選手がけがをして急遽(きゅうきょ)出番が回ってきたから。シュートがたくさん入ったのは、絶妙なタイミンクでパスをくれる先輩ガードがいたから。そして、そんな自分を見出してくれた恩人と出会えたから。
「大学に入ってから思ったのはみんなが普通に知っているバスケットを俺は知らないまま大学に来たんだなぁということです。最初は練習でみんながしゃべっているバスケ用語の意味も分かりませんでした。ドリブルをつける選手ではなかったし、細かい動きもできなかったし、ただやっていたのはパスがきたらシュートを打つということだけです」
当時の国士舘大には2年上に松島良豪(現・国士舘大コーチ)、1年上に伊集貴也(現・香川ファイブアローズ)という2人のポイントガードがいた。
「松島さんはパスをさばくのがすごく上手な人で、『お前はもっとこういう動きをしろ』とか、『相手が守ってきたらこっちに動け』とかいろんなアドバイスをしてくれました。自分は松島さんを100%信じていて、この人からパスがきたら打っていいんだと、なんていうか迷いが全然ありませんでした」
シューターとしての頭角を現した原は、2年生の終わりの入れ替え戦で国士舘大を1部に昇格させる立役者となる。更に3年生のリーグ戦では並みいるシューターたちを抑えて、3ポイント王に輝いた。「いえ、それも伊集さんがいいパスを出してくれたおかげなんです」と、これまた本人は控えめだが、シューターの資質はすでに誰もが認めるところ。中でも学生代表チームの監督を務める池内泰明監督(拓殖大監督)は、原の資質に大きな期待を寄せていた。
“恩人”との出会いが自分の世界を広げてくれた
「池内さんは今でも僕が“最大の恩人”だと思っている人です。池内さんが自分を見出して代表チームの合宿に呼んでくれなかったら、今の自分はなかったとはっきり言えます。一言で言えば、選手としての可能性を広げてくれた人。そういう意味では池内さんが自分のプレーに注目してくれた入れ替え戦は、僕の大きなターニングポイントだったかもしれません。自分の世界はあそこから広がりました」
池内監督は現役時代、日本を代表するシューターとして名を馳(は)せた人物だ。出身校の福島県立郡山商業はバスケの強豪とはほど遠く、高校までは原と同じく無名の選手だった。「彗星のごとく現れたシューター」と評され、話題を集めたのは拓殖大に入学して間もなくのこと。その呼び名の陰には、無名の高校生の資質を見抜いて育てた森下義仁監督(当時)の存在があったのは間違いない。池内監督が入れ替え戦で見た原のプレーに昔の自分を重ねたかどうかは分からないが、少なくとも原の“非凡さ”をかぎ取った嗅(きゅう)覚はかつての恩師と重なるものだと言えるだろう。大学最後の年、池内監督率いるユニバーシアード日本代表メンバーとして、原は初めて世界の舞台に立った。
自分の将来について真剣に考え始めたのは4年生になってからだ。それまでの3年間はプロを目指す意識は皆無で、仲間たちと目の前の小さな目標に向かうことだけを考えていた。そもそも自分がプロになれる自信はなかったし、「卒業したら関東実業団のチームに入って働きながらバスケットが続けられたらいいなとぼんやり考えていました」。思えば、習志野高校(千葉)への進学も、国士舘大への進学も、直前まで自分はぼんやりしていたような気がする。「やっぱり自分に自信がなかったんだと思います。選んだ道で自分がこうなるという確固たるものもなくて、迷いはなかったけど確信はなかったなぁと思うんですね」
「仲間と一緒に頑張ることの大切さ」
ユニバーシアード日本代表メンバーに選出され、世界の舞台を経験したことで、原の意識は大きく変わった。NBL(当時)に所属するプロチーム千葉ジェッツから「アーリーエントリーでうちに来ないか?」という声がかかった時、加入を即断したのは「これまでになかった確信? 直観? なんて言えばいいのか難しいんですけど、とにかく今までとは違う感覚があったからです」。プロ選手になってこのチームでプレーしたいと心から思った。そう思えるようになったのは4年間を通して得た「自信」だろうか。それが4年間で得た一番大きなものですか?と問うと、原は小さく首を傾けた。
「4年間を通して得たものですよね。確かに自信は少し得られたかもしれないけど、一番というと少し違うかな。一番はやっぱりチームメートと目の前の試合に向かって頑張ってきたことかな。1、2年生の時なら1部昇格を目指して、3年生からは1部上位を目指して、常にみんなと頑張ってきました。どんなに小さな目標でも仲間と一緒に頑張ることの大切さ。自分が4年間で得た一番大きなものはその大切さを知ったことだと思います」
チームメートに比べてバスケの知識が格段に低かった自分が主力として活躍できたのは、周りが支えてくれたおかげだと原は感じている。支えてくれるチームメートがいてくれたからこそ、自由にプレーできた。もしも決まりごとが多いシステマチックなチームに行っていたら、途中で潰れていたかもしれない。「国士舘に行って良かったです。入ってからも自分は色々運が良かったんです。国士舘ってちょっと怖い先輩がいるイメージがありますよね。確かに怖い先輩はいたんですけど(笑)、みんなが怖がる先輩にも自分はなぜか運よく可愛がってもらえましたし」
いや、いや、ちょっと待て。怖い先輩に可愛がってもらえたことを「運良く」というのは違うんじゃないのか? 可愛がってもらえたのは、おそらく素直な性格が気に入られたせいで……と、言いかけてやめたのは、原の言葉に遮られたからだ。「でも、思うんです。いくら運がいいっていっても、やっぱり周りの人には感謝しなくちゃダメだよなぁって」