高校でこそは全国制覇を、監督の父に学んだ「気魄」 田渡凌1
今回の連載「私の4years.」は、Bリーグ・広島ドラゴンフライズの田渡凌(27)です。田渡はドミニカン大学カリフォルニア校で主将を務めた後、2017年に横浜ビー・コルセアーズへ、2020-21シーズンから広島ドラゴンフライズでプレーしています。5回連載の初回は父・田渡優さんの指導の元で、バスケットボール漬けの毎日を過ごした東洋大学京北高校(東京)時代の話です。
勝つために高校時代をバスケに捧げた
東洋大学京北中学校(東京)2年、3年と全国大会で準優勝し、U15の日本代表に選ばれた。高校では全国制覇したい、そして日本一の選手になりたい。その一心で父が監督を勤める京北高校に進学した。毎週月曜日のオフ以外、毎日がバスケだった。
朝は6時に起き、毎日欠かさず朝練。好きだった炭酸飲料も我慢した。友達との時間も彼女との時間も、そんなものはほとんどなかった。青春、振り返ってみると自分の青春はいつも体育館の中にあったような気がする。でもそれも何もかもが本当に楽しかった。毎日さほど変わらない練習メニューにどうやって意味を見出すか、昨日の自分よりもどれだけ追い込めるか、そんなことにフォーカスして励んでいたのを覚えている。
初めてのインターハイ。第4シードで出場するも初戦敗退。相手は川崎ブレイブサンダースの藤井祐眞選手率いる藤枝明誠高校(静岡)だった。開始早々足首の靭帯を断裂するけがをし、初めての夏は呆気なく終わった。あんなに長い間、練習ができなかったことはなかったから、とにかく不安な日々を過ごしていた。
けがも完治して挑んだ冬の全国大会(ウインターカップ)。自信があった。まずまずの活躍をして進んだ準々決勝。自分のミスが敗因で負けた。試合に負けて、あんなに落ち込み、泣いたことはないかもしれない。先輩達の3年間を台なしにしてしまった。立ち直るのに時間がかかった。けどそんな時、自分が真っ先に向かったのはやはりいつもの体育館だった。失ったものを取り戻す場所は体育館以外にない。無心で練習に打ち込んだ。それは今でも変わらないこと。「ダメな時こそ練習」。それは高校時代に培った。
アメリカ留学の条件
2年生になり、チームには中学での全国大会準優勝のメンバーに代表クラスのビッグマンが加わり、勝てる年だと言われた。しかしなかなかうまくいかず、都大会で2位、関東大会でも負け、ノーシードでインターハイに挑んだ。しかし大会中にチームが結束し、準決勝まで駒を進めた。
今でも忘れない。準決勝、場所は現在の琉球ゴールデンキングスのホームコートで、相手はアルバルク東京の安藤誓哉選手率いる明成高校(宮城)。この大会、自分は高得点を連発し、アシスト、リバウンドとすべての面で活躍していた。もちろんこの試合でも、気合を入れて挑んだ。まずまずの活躍をし、緊迫した試合終盤、またも自分の判断ミスで相手にリードを許して負けてしまった。あと一歩のところで勝ちきれなかった。それでも確かな手応えをつかみ、すごく成長できた夏になった。
ウインターカップ直前、筑波大学に進学していた兄・修人が帰省した。兄と進学の話になり、自分は内に秘めていたアメリカ留学について話した。父には言えていなかったが、兄はその直後に父に言い、家族会議が行われた。父は自分が次のウインターカップで活躍することが留学の条件だと言った。
より一層気合が入り、挑んだ大会。初戦から活躍し、チームは準決勝に駒を進めた。しかしここでも勝てず、市立船橋高校(千葉)との3位決定戦に回ることになった。この試合、残り7分ほどを残して17点ビハインドの状況から巻き返し、92-91と最後の最後で逆転勝利をつかんだ。自分の高校3年間の中での1番の思い出に残っている試合だ。
厳しかった父が負けた試合の後に放った一言
高校3年の年はなかなか全国大会では勝てず、最後のウインターカップもベスト8で終わった。目標だった全国大会優勝が叶わず終わった。もちろん悔しかったが、それが自分にとっては良かったんじゃないかと今では思う。反骨心。自分が今でも大事にしてる言葉。あの時勝てなかったから、もっとうまくなって、いつか勝てる選手になろうと思えた。アメリカに留学してもっともっとうまくなるんだ! って思えた。
高校3年間では技術以上のものを学んだ気がした。父からはバスケ以上に人として、ひとりの男として必要なことを学んだ。「気魄(きはく)」。これは母校の横断幕の言葉。相手を圧倒する精神力を意味する。父は消極的なプレーや、逃げたプレーをした時、自分にものすごく厳しく怒った。ある時、試合に負けて言われた一言は今でも忘れない。
「お前がシュートを外して負けるなら俺は構わない。けど、お前がシュートを打たないで負けるなら絶対に許さない」
それくらい自分に託してくれた父親が高校の指導者だったからこそ、今の自分があるし、今思えばこれ以上に恵まれたことはなかったんじゃないかと思う。3年間、応援席にいた同級生、先輩なのにリバウンドをしてくれた上級生、自分が試合に集中できるように尽くしてくれた下級生……。彼等がいなかったら今の自分はない。たくさんの犠牲があって、ひとりの恵まれた選手が生まれる。それが自分だった。だから自分は今もその人達の分も背負って戦わなきゃならない。
27歳になった。高校を卒業して9年間が経つ。まだまだ自分の理想とは程遠いが明日も自分は体育館に向かって目標の自分に近づけるように頑張る。それが1番の近道だから。