カリフォルニアの短大での共同生活で学んだこと 田渡凌3
今回の連載「私の4years.」は、Bリーグ・広島ドラゴンフライズの田渡凌(27)です。田渡はドミニカン大学カリフォルニア校で主将を務めた後、2017年に横浜ビー・コルセアーズへ、2020-21シーズンから広島ドラゴンフライズでプレーしています。5回連載の3回目は、短大で過ごした日々についてです。
競争心も高い選手たちとの共同生活
渡米した翌年7月くらいに進学先がようやく決まった。カリフォルニア州のフリモントという街にあるオーロン・カレッジ(短大)に通うことになった。本来であれば4年制の大学でNCAAに属すディビジョン1の学校に進学したかったのだが、自分がそういった学校に行くほどの学力がなかったことから、まずは短大に行って2年間でバスケも勉強もしっかりやって、NCAAの学校に転入する条件を満たすための日々が始まった。アメリカではある程度学業もこなしていないとスポーツをやらせてもらえないルールがあるので、毎日の授業もすごく真剣に乗り組む必要があった。
短大といえど、バスケのレベルはすごく高かった。セルビア、オーストラリア、スペイン、ノルウェー、スウェーデン、各国のU18代表クラスが集まってきた。それ以外にもローカルのアメリカ人選手もいて、彼らもまた高い技術と能力を兼ね備えていて、学力の問題から高いレベルの学校にはいけなかった選手の集まりだったから、競争心も高く刺激ある毎日だった。コーチもすごく優秀だった。たくさんのバスケの知識をここで学んだ。知らない単語、まだ当時日本ではやってなかったようなシステム、ゲームの作り方など、数えきれないほどの知識量を叩き込まれた。
最初の方は試合になかなか出られない日々が続いたが、1年生の終盤にはシックスマンくらいの役割をもらい、チームの勝率もよく、すごく楽しかったのを覚えてるし、チームケミストリー的には今までで自分がいたチームの中でも1番良かったかもしれない。その理由には、チームメートとの共同生活があったからかもしれない。
いい時も悪い時もともに過ごした。あんなに毎日ずっと同じ空間にチームメートといることはなかなかないだろう。けど慣れない土地で、言葉にも苦労していた時期だったが、同い年くらいの選手たちといられたことが心の救いだったし、たくさんの思い出を作った。いまだに彼らとは連絡も取るし、またあのころに戻れたらいいな、なんて話もする。
肝心の勉強の方は、最初の方はなんの授業を受けているかすら分からずたくさん苦労しながらも、ひとつもクラスを落とさずにクリアしていった。その中でもたくさんの友人ができて、授業も宿題も試験も手伝ってもらった。彼らのヘルプなしには絶対に無理だったと思う。朝は勉強、昼は練習、夜は勉強、毎日その繰り返しであっという間に過ぎていった。
温かい人たちに囲まれ、ひとりになることはなかった
1年を過ぎたあたりには慣れてきて、周りの人たちを笑わせられるくらい英語力も伸びて、生活が楽になり楽しい時間が増えた。今でも親友と呼べるくらいの友人もバスケ以外でできたし、街がサンフランシスコから近かったこともあり散策などもした。貴重な体験だった。
アメリカは様々な記念日や祝日、誕生日だったりを大切にする文化がある。家族から離れて暮らしていた自分には、そういった日を一緒に過ごす相手はいなかった。しかし、コーチやチームメート、学校でできた友だち、先生たち、いろんな人が常に気を掛けてくれて、自分がホームシックにならないように良くしてくれた。
今、人種差別がものすごく問題視されているアメリカ。けどそういった国の中にも優しい人はたくさんいて、特にカリフォルニアは移民の人が多かった理由もあるが、自分のような海外からきた学生を受け入れてくれる文化があったように感じた。
自分が必要とされている場所
2年目のシーズンはキャプテンを任された。試合にもたくさん使ってもらい、カンファレンス(リーグ)の優秀選手やトーナメントではMVPになるなど、手応えのあるシーズンを過ごし、念願のディビジョン1の学校からも声が掛かるほどの活躍を残せた。しかしどこの学校も自分をファーストオプションとしては考えてはくれず、もし他の選手が来ないならその枠を自分にくれる、そんな感じのリクルートだった。
その中で熱心に誘い続けてくれた学校があった。ディビジョン2に所属するドミニカン大学カリフォルニア校だ。何度もコーチが会いに来てくれた。正直、最初は気が乗らず行きたくなかったから、せっかく大学までコーチが会いに来てくれたのに散髪を理由に遅れて登校したこともあった。しかし、自分を中心にチームを編成することを約束してくれたコーチ陣に次第に引かれていき、転入を決めた。
この時の決断の仕方がその後の自分の人生の中でとても生きたように思う。その場所に自分が必要とされているかどうか、自分にとってこれはすごく重要で、生き甲斐を与えてくれる一番の理由だった。ドミニカン大学は生徒数も2000人ほどで小規模の学校だった。それも自分にとっては都合が良く、大きい大学に行って学業面でのサポートが手薄になるより、教授たちにたくさんサポートが受けられることも魅力のひとつだった。
短大での2年間はバスケ以外のことでもたくさんのことを学んだ。チームメートには前科のあるものもいた。片親は当たり前で、経済的に困ってる選手、次の日のごはんが食べられるか分からない選手もいた。同じカンファレンスの大学にいた選手が殺されるような事件もあった。その中で助け合いながら生活したことで、世の中の様々な問題やアメリカの文化を学んだこの時期は、自分にとって貴重な時間となった。