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連載: プロが語る4years.

富山で育んだおおらかな心、U-18日本代表としてインドで躍動 千葉J・荒尾岳1

“おかえり”と声をかけられながら、荒尾は4シーズンぶりに古巣・千葉Jに帰ってきた (c)CHIBAJETS FUNABSHI

今回の連載「プロが語る4years.」は、仙台89ERSから4シーズンぶりに千葉ジェッツふなばしに帰ってきた荒尾岳(35)です。4回連載の初回はバスケットボールとの出会い、県立泊高校(富山)でU-18日本代表に選出された時のお話です。

“荒尾ロス”と“おかえり”

新しいシーズンが始まるまでの短いオフにバスケファンが注目するのは、選手の移籍に関するニュースだ。応援するチーム、選手の動向が気になるのは当然のこと。SNSからは連日のように一喜一憂の声が伝わってくる。

その中でも多くのファンを驚かせたのは、6月24日に発表された「荒尾岳、仙台89ERSから千葉ジェッツに移籍」のニュースだろう。2013~2018シーズンに千葉Jでプレーした荒尾の4シーズンぶりの古巣復帰が話題を呼んだのは間違いないが、それを差し引いても予想以上に大きかったのは、送り出す仙台の“荒尾ロス”の声と、迎え入れる千葉Jの“おかえり”の声だ。JBL、NBL、Bリーグと形を変えたトップリーグに身を置いて13年。今も愛され続ける35歳の「これまで」とベテラン選手だから語れる「これから」についてじっくり話を聞きたいと思った。

自然に育まれた大きな体、おおらかな心

荒尾が生まれ育った富山県朝日町は、新潟との県境に位置する自然豊かな町だ。

「自然豊かというか、自然しかないというか、海があって山があってものすごくのどかなところです。休みの日はたいてい釣りに行ったり公園で遊んだりしてました。田舎だから他に行くところがなかったというのもありますが(笑)」

そういえば……と思い出したのは、「中学時代に私服を買ったことがない男」という荒尾の伝説だ。おしゃれに目覚める思春期でありながら、私服を買っても着ていく場所がないので、どこへ行くにも制服で出かけていたという。伝説の真偽は定かではないが、終始にこやかにのんびりとした口調で語る荒尾を見ていると「さもありなん」と思えてくる。想像の中に浮かぶのは、白いワイシャツ姿で山道を歩き(時々鼻歌なんかも口ずさみ)、黒いズボンをたくし上げてのんびり釣り糸を垂れる姿。友だちが呼ぶ声に「おぉ!」と手を振る少年は、今、目の前で「あはははは」とおおらかに笑う荒尾と重なる。

富山の豊かな自然環境の中で荒尾はおおらかに育った

肘の骨折が契機に

最初に出会ったスポーツは野球だ。おっとりした性格とは裏腹に俊足で「運動はだいたい何でも得意だった」という荒尾は、小学生から地元のスポーツ少年団の野球チームに入団。中学でも迷わず野球部に入り、朝夕白球を追いかける日々を送った。だが、2年生の時に負った肘(ひじ)の骨折が野球少年の行く道を変える。

「肘をギプスで固めて、それが取れるまで2カ月かかったんですね。その後、一度は野球部に戻ったんですが、2カ月ブランクがあったせいで居場所がないというか、何となく居心地が悪くて、悩んだ末に退部を決めました。それが2年生の冬。3年生からバスケ部に入ったのは、野球ができない時期に友だちとよく見ていたバスケのビデオがきっかけです。もともとバスケは好きだったんですが、ビデオを見ているうちにバスケ、面白いな、中学の最後の1年はバスケをやるのもいいかなって思えてきて。まあ単純な理由なんですけどね(笑)」

もちろん、この時は「この先もバスケを続けよう」などとは露ほども考えておらず、地元の県立泊高校に入学した後も、しばらくはバスケとバレーのどっちをやるか迷っていたという。「泊高校のバスケ部とバレー部は県ベスト4に入るぐらいの実績があって、どっちに入るか決めかねていました。中3でやったバスケットは楽しかったけど、うちは両親が揃(そろ)ってバレーをやっていたので、バレーにも親しみがあったんですね」

そこに登場したのがバスケ部の顧問の先生だ。中学入学時に160cmだった身長が3年間で30cm以上伸びた荒尾は、なんとしてでも獲得したい逸材。登下校時、荒尾を捕まえては「バスケットは楽しいぞ。バスケ部に来いよ」とラブコールを送り続けたらしい。「毎日、待ち伏せされていました(笑)。とにかく熱心で、最後はその熱意に負けた感じです。けど、今は感謝していますね。あの時、待ち伏せしてまで声をかけ続けてくれた先生がいたからこそ、今の自分がいる。スタート地点に連れて行ってくれた先生にありがとうと言いたいです」

コツコツと基礎トレーニングを続け世代を代表する選手へ

そうは言うものの、当時の荒尾はほぼバスケ初心者。与えられたメニューはランニングを中心とする基礎練習がメインで、ただ黙々とトレーニングに励む日々だったという。

「同じ学年に石川県から来たデカい選手いて、そいつはすぐにスタメンになったんですが、自分は先生に言われた基礎トレーニングをひたすら頑張るだけでした。でも、初心者なんだからそれは当たり前だと思っていたし、全然、嫌じゃなかったですよ」

もっとうまくなりたい気持ちはあったが、長身の同級生を追い越してやるという野心はなかった。野心はないが、練習では絶対手を抜かなかった。「我を出すことが苦手」という荒尾はその分、真面目にコツコツと練習に取り組み、いつしかチームの大黒柱と呼ばれるようになる。3年生の時にU-18(アジアジュニア)日本代表候補に選出されたことはまさに成長の証と言っていいだろう。だが、ここでも荒尾の言葉は控え目だ。

「その頃、確か(身長が)196cmか197cmぐらいだったと思うんですが、登録する時に先生が200cmと書いてくれてそれが(選出に)影響したんじゃないかと思っています(笑)」

いやいや、3cmほどサバを読んだぐらいでは40人で始まった合宿の最終メンバーには残れないだろう。

「うーん、自分でも残れるとは思ってなかったんですよ。周りのメンバーは川村卓也とか西村文男(現・千葉ジェッツ)とか寒竹隼人(現・仙台89ERS)とか月バス(月刊バスケットボール)で見ていた選手ばっかりで、無名の自分のことなんて誰も知らなかったと思うんですね。そんな自分が最終メンバーに残れるはずはないと思っていました」

だが、当時を知る寒竹によると「荒尾のことは合宿で初めて知ったんですが、デカいのに走れるし、跳べるし、ミドルシュートもガンガン入るし、すごかったですよ。2mあるのにこんだけ動けるんやとびっくりしたのを覚えています」と、与えたインパクトは大きかったらしい。

ちなみにチームが遠征したアジアジュニア大会の開催地はインド。細心の注意を払っていたにもかかわらずほとんどの選手が“水あたり”で倒れる中、最後まですこぶる元気だった荒尾は「インドで腹を壊さなかった男」という新たな伝説を作った。

高校時代に世代を代表する選手へと成長し、青山学院大へと道がつながった(撮影・柏木恵子)

その後、しばらくして荒尾家に思いがけない来訪者がある。東京からやって来たのは関東大学リーグの強豪・青山学院大学の長谷川健志監督と吉本完明トレーナーの2人だった。

青山学院大「期待の新人」は先輩に鍛えられ“その先”を切り拓いた 千葉J・荒尾岳2



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