中国での寂しさをバスケで埋め、宇都直輝との出会いで道を変え 名古屋D・張本天傑1
今回の連載「プロが語る4years.」は、男子バスケットボール日本代表として昨夏の東京オリンピックにも出場した名古屋ダイヤモンドドルフィンズの張本天傑(てんけつ、30)です。名古屋は昨シーズン、BリーグCS(チャンピオンシップ)進出を果たしました。4回連載の初回は、中国で過ごした日々とバスケとの出会いについてです。
CS進出「チームも自分もまだまだです」
名古屋は昨シーズンのCSを「コートに立てる外国籍ビッグマンはスコット・エサトンただ1人」という苦しい状況で戦った。川崎ブレイブサンダースと対戦したクォーターファイナル第1戦は71-97で完敗。さらに2戦目にはエサトンまでもが離脱の不運に見舞われ、ゴール下の攻防は身長198cmの張本に委ねられることになる。この時点で「川崎の圧勝」を予想したファンは多かったのではないか。
しかし、名古屋は試合開始から気迫あふれるプレーで川崎に食らいついていった。中でもサイズで上回る相手に臆することなく体を張り、消耗する体力を奪い立たせながらコートを走った張本の姿は名古屋の“諦めない気持ち”を体現していたように思う。だが、本人は「結果(70-85で敗戦)が残せなかったのはまだまだってことですよ。チームも自分もまだまだです」と小さく笑う。
プロ選手となって10年、2021年には日本代表として念願の東京オリンピック出場も果たした。「でも、まだまだ」。名古屋で7シーズン目を迎える張本がその先を見据え、求めるのはどんなものなのだろう。
中国で生まれ、11歳で日本へ
あれはいつだったか。代々木第二体育館で中国のメディアから取材を受ける張本を見たことがある。質問の一つひとつに流暢(りゅうちょう)な中国語で答える張本は普段の2倍、いや3倍ぐらいかっこよかった。が、考えてみればそれもそのはず、張本の出身は中国。高校2年生で日本に帰化するまでは『張天傑』と名乗っていた。生まれ育った遼寧省・瀋陽市(りょうねいしょう・しんようし)は中国でも有数な産業都市だ。
「僕は一人っ子でしたが友だちは多くて、毎日ほとんど外で遊んでいるような活発な子どもでした。いたずらもいっぱいしたし、言うなれば元気な悪ガキでしたね(笑)」
そんな張本が親元を離れたのは小学校に入学した年。周恩来(中華人民共和国初代首相)が通ったという有名な小学校には「学びながら生徒の自立心を育てる」ことを目的とした寄宿舎が併設されており、月曜日から金曜日まで学校で過ごし、週末に家に帰る生活が始まった。
「1年生で家を離れるのって寂しくなかった?と聞かれることがありますが、どうだったんだろう。あまり覚えていません(笑)。それより寂しかったのは両親が日本に行っちゃった時ですね。僕は4年生からまた実家に戻ったんですが、日本で仕事をするために両親が日本に行ったので、しばらくおばあちゃんと叔母さんと3人で暮らしていたんです。お母さんが恋しくてこっそり泣いたこともあります(笑)」
その寂しさをまぎらわせてくれたもの、思えばバスケもその一つだったかもしれない。
「うちはお父さんがバスケ、お母さんがバレーの選手だったので、自分も小学2年生の頃バスケクラブに入りました。年齢は様々で大人もいるようなクラブだったんですが、それはそれで楽しかったです。なので実家に戻った後もすぐ近くのバスケクラブに通い始めました」
夢中でボールを追っている時は寂しさも忘れる。友だちとの仲も深まる。
「そうですね。特に日本に来てからバスケは僕にとって友だち作りのツールになりました。バスケには随分助けられたと思います」
ジュニアオールスターで宇都直輝と出会い
一足先に日本に渡った両親を追うように張本が来日したのは、小学6年生に進級する春のことだった。最初に住んだのは岐阜県。一言も日本語が話せないまま日本に着いた2日後が、転入した小学校の始業式だったというから驚く。
初めての国、初めての学校。右も左も分からない環境にいきなり飛び込んだ少年は、さぞかし心細かっただろう。文化や習慣の違いに戸惑うことも多かったのではないか。だが、意外なことに当時を振り返る張本の顔は明るい。「苦労がなかったと言えば嘘になりますが、お父さんとお母さんと一緒だったし、それほど辛(つら)いと思ったことはないですね」。大変だった日本語の習得も張本のために中国語が分かる先生を付けてくれたおかげで、順調に上達していったという。
「2年前に来日したお母さんが通っていた日本語学校の教科書を使って、毎日先生とマンツーマンで勉強しました。平仮名を覚えることから始めたんですが、覚えるのは割と早かったと思います。自分で言うのもなんですが、僕は結構勉強が得意なんです(笑)」
ほがらかにそう笑う顔を見ていると、「ポジティブ」という言葉が浮かぶ。20年前にワープしてそのポジティブさを称(たた)えたくなるほどだ。
「まあ、確かに性格は明るい方なんでクラスの友だちともすぐ仲良くなれました。あと、大きかったのはミニバスのチームに入ったことですね。両親が働いていた中華料理店の駐車場にバスケのリングを設置してくれて、時間があればそこでみんなとバスケをやるようになりました。みんなでわいわいバスケするのは楽しかったし、やってるうちに自然と仲良くなれたんですよね。日本語がそれほど分からなくてもコミュニケーションが取れるというか。バスケの力は偉大でした(笑)」
しばらくして一家は愛知県に引っ越すが、進学した中学でも迷うことなくバスケ部に入った。本人によると「当時の自分はかなり太っていて走力もなかった」らしいが、高さと器用さを併せ持つ選手として着実な成長を見せ、3年生のジュニアオールスターで県代表メンバーに選出される。そこで出会ったのがバスケは図抜けてうまいが、「性格も図抜けて生意気なやつ」だ。
「宇都直輝(現・バンビシャス奈良)ですね。超生意気でしたよ(笑)。だけど、基本いいやつで、練習の合間にいろんな話をしました。高校はどうする? どうせなら弱い学校がいいよな。弱いチームを自分たちの力で強くするってよくない? それ、やりがいあるよな……みたいな。2人でそんな話もしましたね」
進学のシーズンが近づき、いくつもの高校から誘いの声がかかった時、張本が思い出したのはジュニアオールスターで宇都と話したことだ。当時の中部第一高校(愛知)は強豪とはほど遠かったが、だからこそ「自分たちの力で強くしたい」と思った。中部第一の体育館で再び宇都と顔を合わせた時、どちらともなくニヤッと笑ったような気がする。15歳の2人は、これから始まる壮絶な日々をまだ知る由もなかった。