バレーの聖地・広島で育ち、スクワットは1日1000回へ 日体大・山本健之監督1
昨年の関東大学男子バレーボールは新型コロナウイルスの影響を受けて様々な大会が中止になり、12月の全日本インカレだけが唯一最後まで戦えた学生大会の公式戦でした。その全日本インカレで日本体育大学は2014年以来となる決勝進出を果たし、準優勝。連載「監督として生きる」では09年から日体大を率いる山本健之(けんじ)監督(51)の現役時代も含め、4回にわたって紹介します。初回はバレーとの出会いと広島で過ごした学生時代についてです。
「バレーボールの全日本選手になる」
全国各地に存在する○○の聖地。「バレーボールにおいてそのひとつが広島県広島市安佐南区だ」と山本監督は言う。
「秋田県の能代がバスケットボールの街、長崎県の国見がサッカーの街と言われるように、希代の名セッター、猫田(勝敏)さんの出身地でもある広島の安佐南区はバレーボールの街なんです。特に私が幼い頃は隣近所、みんながバレーボールをやっていたと言っても大げさではないぐらい、みんな自然にバレーボールを始める。そういう場所でした」
今でこそ地元に野球の人気球団やサッカークラブを擁する広島県で、子どもたちをバレーに引き込むのは至難の業でもあるが、山本監督が少年時代はバレー一択と言っても過言ではない環境。当然ながら子どもの頃から上達も早く、指導者の質も高い。加えて言うならば、小学校のPTAでバレー大会を行えばそれまた遊びの範囲を超えたレベルの高さ。そんなバレーが根付いた環境で、小学生からバレーに打ち込む。その成果は小学生の全国大会を制覇するなど、着実な形となって表れる。ごくごく自然に、将来の夢も描いた。
「小学校の卒業文集で“バレーボールの全日本選手になる”と書きました」
先に種明かしをすれば、その数年先に夢を叶(かな)えるのだから、まさに有言実行。だがそう話を向けると、山本監督は笑いながら続けた。
「でも、それ以上先にはいけなかったんですよね。だからオリンピックとか、もっと大きなことを書けばよかったなぁ、と思うんですよ(笑)。実際、今の学生と面談をする時も聞くんです。『将来どうなりたいんか』と。そうするとみんな、『大金持ちになりたい』とか『大社長になりたい』とか『世界で活躍する選手になりたい』と、大きな夢を言ってくる。立派ですよ。やっぱり夢は、大きく描く方がいいですから」
広島で勝てたら全国優勝が狙える
高校は地元の名門、広島工大高へ進む。当時は崇徳、神辺旭とともに県内三強の一角を担う強豪。「広島で勝てば全国優勝できるぐらいレベルが高かった」と振り返るように、全国制覇も成し遂げた崇徳が一歩リードするも、全国大会の県予選は熾烈(しれつ)を極めた。
言うまでもなく、日々の練習もとにかく厳しかった。自宅から1時間弱の道のりを自転車で通い、授業前の朝練と放課後も基本技術やゲーム形式の練習をメインに、さらにトレーニングも含めれば、自宅に帰るのは23時近くになる。だがやらされていたわけではなく、やりたい。そんなバレー漬けの日々がとにかく楽しかった。
「毎日毎日飽きることなく練習をしているのに、それでもちょっと時間が空けば『ボールに触りたい』と思うんですよ。それぐらい、朝から晩までとにかくバレーボールに熱中していました」
当時のポジションはレシーバーだったが、現在とはルールも異なり、“リベロ”のポジションも存在しない。試合になればレシーブに重きを置かざるを得ないが、当然スパイクも打つし、時にはセッターも務めた。身長は高くなくとも、全てのプレーを器用に人並み以上のレベルでこなす。なかでも、日々レシーブ練習に大半の時間を割いたおかげでレシーブ力が向上する一方、高校2年の夏にはジャンプ力が飛躍的な成長を遂げた。
日ごとに100回ずつ増えていくスクワット
きっかけになったのは、夏休みにコーチ役を務めるOBの大学生との「遊びと理不尽の成果」と山本監督は振り返る。
「練習前のアップで、コーチがジャンプしてバスケットボールのリングをつかんだんですよ。身長は同じなのに、軽々跳んでバーンとつかむのがカッコよくてね。やってみたい、と思いながら見ていたら『この練習をやればできるよ』と言われて、出された課題がスクワット100回。それができたら次の日は200回。その翌日は300回、そして400回と、100回ずつ桁が増えて、最終的に1000回までいきました。汗だくで、2時間近くかけてひたすらスクワット。授業や部活の時以外はつま先立ちで歩くなど、理不尽だと思いながらもどこかゲーム感覚でね。帰りの自転車をこぐ時は脚がプルプルしていましたけど(笑)、とにかくジャンプしたかったから必死ですよ。でもそのおかげで夏を超えたら一気にジャンプ力が増して、ブロックジャンプも(ネットの上に)肘まで出るぐらい、跳べるようになった。今思えば『跳びたい』という理由だけで、単純だったかもしれないけれど、その後も大学、実業団でトレーニングを重ねたおかげで、最終的には1m10まで跳べるようになりました」
高校卒業後は、恩師の出身校でもある日本体育大学へ進学。教員や指導者を志したわけではなかったが、多くの選手や指導者を輩出している日体大でより一層自身のプレーを磨きたい。ただシンプルにそう願い、門を叩(たた)いた場所で高校時代とはまた違う、更に広い世界を知ることとなった。