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連載:監督として生きる

選手として「いかに人と違うことを極めるか」と試行錯誤 日体大・山本健之監督2

森田淳悟監督が指導する日体大で、山本監督はチャレンジし続けた(撮影・松永早弥香)

昨年の関東大学男子バレーボールは新型コロナウイルスの影響を受けて様々な大会が中止になり、12月の全日本インカレだけが唯一最後まで戦えた学生大会の公式戦でした。その全日本インカレで日本体育大学は2014年以来となる決勝進出を果たし、準優勝。連載「監督として生きる」では09年から日体大を率いる山本健之(けんじ)監督(51)の現役時代も含め、4回にわたって紹介します。2回目は選手として過ごした日体大時代についてです。

森田監督が型にはめない練習を許してくれた

今30歳を過ぎた現役選手たちが大学時代を振り返る時、あれこれと思い出話に花を咲かせながら、最後は決まって同じ言葉をつけ加える。

「今と以前、僕らが学生の頃を比べたらバレーボール自体が違いますね」

それよりも更に遡(さかのぼ)り、山本監督が大学生だった現役時代を比べれば、当然多くが違っている。例えば今のようにミスをしても1点が入るラリーポイント制ではなく、2本続けて決めなければ1点が入らないサイドアウト制で、しかも25点先取ではなく15点先取だった。ポジションもアウトサイドヒッターやオポジットなど、より専門性が求められる今と異なり、リベロもいない。身長2mを超えるミドルブロッカーの選手でもサーブを打ったら交代ではなく、そのまま後衛に入ってサーブレシーブを受け、バックアタックに入る。いくつか羅列するだけでも、ルールも含めて異なることばかりで、現に山本監督も「昔と今は違う」と言う。

だが、全てが“違う”ばかりではない。

「当時は大学バレー自体のレベルが高くて、その中で生き抜くためには周りと同じことをしていたらダメ。いかに人と違うことを極めるかと必死でした。だから練習も型にはめず、いろんなことを考えて実践する。例えば、今はセッターがファーストタッチ(1本目のレシーブ)したボールを、2本目に触る選手がそのままセットするのではなく、上げると見せかけてバックの選手が打つことも普通ですよね。でもあの頃も当たり前にやっていたし、バックだけでなくフロントの選手が上げると見せかけて打ったり、フェイクを入れたり、遊び半分でいろんなことを試していました。そうすると、そんな僕らを見ていた森田(淳悟)先生(前日体大男子バレー部監督)がボソッと『大振りしたらミートできないだろ』とか、アドバイスをくれるんですよ。そこで1回も『何やってるんだ』なんて言われたことがない。先生も見ていて、僕ら学生が何かを生み出そうと一生懸命やっているのが分かるから、見守って、アドバイスをしてくれるんですよね。その環境がありがたかったし、おかげで本当にいろんなことにチャレンジさせてもらいました」

リベロもスパイク練習をする必要がある

当時はバレー人気も全盛期で、日本代表や日本リーグ(現Vリーグ)だけでなく、大学リーグの試合も何千人という観客が訪れ、立ち見も当たり前。単に人気があるだけでなく、実力を備えた選手も多かった。関東1部リーグは日体大を含めて6チーム。現在は12チームで1回戦総当たりが基本だが、その半数でのリーグ戦は土日曜日続けて同じチーム同士が対戦する方式だった。例え初日に負けても翌日はどう勝つか、策を練り直して臨むことができるため、互いにライバル心を燃やし、切磋琢磨(せっさたくま)して力を競い合う。強くなるには申し分のない環境に恵まれていた。

練習時間が限られていたため、山本監督(2番の向かい側)は9人制の練習にも混ぜてもらいながらバレーと向き合った(写真は本人提供)

日々の練習はさぞ厳しかったのだろうと想像するが、実は練習時間自体はそれほど長くはなかった。世田谷キャンパス内で授業を受け、16時半から練習。寮がある横浜に門限の21時までには帰らなければならないため、世田谷キャンパスの最寄り駅から19時半前には電車に乗ってバスを乗り継がなければいけなかった。

しかも限られた練習時間の中で、必然的に多くの時間を割くのはコンビやゲーム形式の実戦練習。レシーバーの山本監督にとっては、十分な時間ではないどころか、日によっては最初のウォーミングアップと対人レシーブ、スパイク練習のボール拾いだけで終わってしまうこともあった。そのため、9人制の練習に混ぜてもらったり、時間を見つけて自主練習に励んだりと練習時間を確保。その甲斐あって、3年生だった1990年には全日本インカレを制覇した。成績はもちろんだが、指導者としての今につながる根本を学び、実践したのが大学時代だった。

「とにかく当時は一人ひとりの個人スキルが高かったですから。今は分業制で、極端に言えば小学生の頃から『大きいから打つだけでいい』と偏った練習しかしてこなかった選手もいます。逆に背が低い選手は『リベロになれ』と言われ、背が伸びたら(高橋)藍(日体大2年)や石川(祐希、パワーバレーミラノ)のようにスパイカーになって成功することもありますが、あれもこれもできる選手はすごく少ない。先々を考えると、本当にもったいないと思います」

現在、日体大で指導をする際、山本監督はポジションにかかわらず全員にスパイクを打たせ、レシーブをさせ、セットの練習をさせる。最終的にどのポジションになろうと、それが必要であるからに他ならないのだが、なかには「なぜリベロの自分がスパイクを打つ必要があるのか」と疑問を投げかけてくる選手もいると言う。

「そこで『いいから打て』ではなく、理由を説きます。リベロも打つことでスパイカーの気持ちが分かるようになるし、そうすればどこを狙ってくるかが見えてくる。何より打つこと、スパイク動作に伴って体を鍛えるトレーニングにもなるから『リベロだから打たなくていい』ではなく『打ちなさい』と。最初は『なぜ打つことが必要なんだ』と思っていても、そう言えば、『そうか、これはトレーニングの一環なのか』と思って納得するし、何より固定概念を打ち破ることにつながる。学生にはそういう発想や、新しいことにチャレンジする力を持ってほしいですよね」

変わりゆくバレー、大切なのはバランス

世界の潮流とともに日本のバレーも変わり、当然それは大学にも及ぶ。時にスピードバレーを追求し、バックセンターからのパイプ攻撃を取り入れ、なおかつ速さも求める。それでもレシーブやセットが乱れた状況では高いトスを打ちきれる力もなければならない。スパイクの技術を例にしても、以前はブロックの間をきれいに抜いて決めるのが主流だったが、リードブロックが主流になって以降は、いかにブロックを利用して決めるか、と変わってきている。求められることは多岐に及び、常に何かひとつだけができればいいのではなく、大切なのはいかにバランスよくできるか。

ポジションの枠を越えて技を磨き、様々な発見にもつなげていく(撮影・松永早弥香)

「『昔の選手はうまかった。でも今の選手はパワーがすごいよね』と言われることもありますが、昔もパワーのある選手はたくさんいました。でも、それが目立たなかったのはパワーだけの勝負じゃなかったから。選手それぞれに特徴があって、そこを生かしながら、もうちょっとこんなことできないかな、とテクニックや個人スキルを磨く。そういう楽しさをね、学生にも教えてあげたいんです」

自身の学生時代を思い出しながら、細かに例を挙げるたび、現在の学生に向けた指導の話へと展開していく。だが、そもそも「指導者になりたい」と日体大へ進んだわけではない。ましてや大学卒業後はJT(現・JTサンダーズ広島)でレシーバー、そして94年以後はリベロとして日本代表にも選出された。そんな山本監督がなぜ指導の道を志すことになったのか。

その背景には「ラストチャンス」を逃がさず飛び込んだ、覚悟があった。

監督として生きる

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