「楽しむ」「勝つ」の順番の違いがプロとアマ、岩政大樹が監督になって感じたこと
私が監督を務めている上武大学は、関東リーグへの昇格を目指して戦ってきましたが、その夢は叶(かな)いませんでした。「まだまだ」と思う側面もありつつ、「あと一歩」と捉えることもできる。そんな戦いまではできていたと思います。様々なことが起こったシーズンでした。対応力を問われ、マネジメント力を問われた中で、私自身もいい経験ができたと感じています。
「スポーツ」の考え方
北関東リーグの優勝を懸けた大一番に敗れ、夢破れた時、私は複雑な気持ちでした。悔しさは当然ありました。しかし、同時に選手たちに「よくやった」と感じていました。
こんな気持ちは、指揮官として、本来あってはならない。最初はそう思ったのです。やはり、「勝たなければ意味はない」。そう私の経験が問いかけてきます。しかし、私は次第にそれは少し違う気がしてきたのです。学生たちの顔には、悔しさの中に清々(すがすが)しさが浮かんでいました。そこにうそはない。ならば、そのどこに“意味がない”と言えるのか。そう思ったのです。
卒業となる4年生たちからかけられた嬉(うれ)しい言葉たちがあります。それらには多分に社交辞令が入っていると思いますから、それを殊更に自慢することはありません。ただ、「全く知らなかったことを教わってサッカーがより楽しくなった」、そして、「これまでで一番楽しかった」、そんな言葉を聞くことができた時に、プロとアマでは「スポーツ」の考え方を分けなければならないのではないか、と感じました。
プロは「勝たなければ意味はない」
私は15年間プロサッカー選手として仕事をしました。それ以前にも“勝つため”だけを考えてサッカーをしてきました。「勝たなければ意味はない」。そんなフレーズもどこかで何度も聞いて育った気がします。それは経験則も含めて、決して間違っていたとは思わないのですが、ある意味ではスポーツの本来の目的を外してしまっている危険を感じます。
スポーツの本来の目的は、きっと「楽しむ」ことです。「勝つ」という競技としての目的・目標を追いかけながらも、対戦相手と駆け引きをすることや頭で描いたプレーを実際に実現することの楽しさで、そのスポーツを好きになったはずです。
そこに次第に「勝つ」ということの意味の大きさが乗っかってきます。段々勝ち負けの影響の大きさが変わってきて、勝つために必要な要求も増えていきます。勝たなければ評価されないというのは当然のこと。実際に、私は“いい選手”の定義は「チームを勝たせられる選手」だと思っていますしね。
アマは「楽しむ」の向こう側に「勝つ」がある
ただ、少しだけプロとアマとで違うのは「勝つ」ということと「楽しむ」ということの順番なのではないか、と今回の経験で考えました。アマというのは「楽しむ」ことの向こう側に「勝つ」ことがあります。しかし、プロではそんなことは許されません。「勝つ」ことから「楽しむ」ことにつながっていきます。だから、プロでは「勝たなければ意味はない」はそうなのだと思います。それがプロの仕事です。
しかし、アマはどうなのでしょうか。日本では、このアマチュアスポーツ、特に部活動の考え方を改めなくてはいけない局面にきている気がしています。勝たなければ、あるいは、強くなければ選手が集まらない、という事情があることは理解しています。勝つことで評価される世界であることも知っています。
でも、「勝つ」が「楽しむ」より手前にある場所では、見つけられないものがあると思うのです。例えば、プレーするコツ。例えば、相手との駆け引き。例えば、相手を見て“まずやってみる”ということ。それらを育成年代で阻害してしまうことが、本当にその先の日本サッカーやその先の選手たちにつながることなのかを、ちゃんと考えていかなくてはならないと思います。若い皆さんはどう考えますか?
「楽しむ」を目指しながらも「勝つ」ことはできる
海外では、そのためにリーグ戦を基本としていたり、力の拮抗(きっこう)するチーム同士で戦える環境を整えていたり、全国大会をなくしたりしていると聞いたことがあります。このあたりは日本も徐々に変わってきているところではありますが、制度が変わっても、根深い心の部分はなかなか変わらないかもしれません。
勝つことに必死になることは最高です。私もそういう人間の1人です。しかし、「勝つ」ことが「楽しむ」ことの手前にあるような選手たち、指導者たちの言動を見ると「もったいないな」と思ってしまいます。こんなことを言っていると、「そんな甘っちょろい考えじゃダメだ」「それじゃ勝負に勝てない」、そんな声が聞こえてきそうです。しかし、私は今はそうは思わなくなりました。
「楽しむ」ことの先に「勝つ」ことがある。そうすれば、スポーツをする意味なんてものは、本当はたくさん存在するのです。それを目指しながらも勝つことはできる。それが今私が思っている指導者としての哲学です。