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特集:2021年 大学球界のドラフト候補たち

筑波大・佐藤隼輔「ドラフト1位でプロへ」ぶれない目標を胸に臨むラストシーズン

笑顔で撮影に応じてくれた佐藤(試合以外全て撮影・小野哲史)

筑波大学のエースとして、首都大学野球リーグでここまで通算10勝を挙げている佐藤隼輔(しゅんすけ、4年、仙台)。高校3年生の時にプロ入りを意識するようになったが、「ドラフト1位で指名される選手になる」ことを目標に大学野球の道を選んだ。その思いは揺らぐことなく、大学日本代表に選出されるほどの力をつけた。どんな野球人生を歩み、どのような思いで大学生活を送ってきたのか。自身が持つ野球観や将来の展望などを聞いた。

「4年後にドラフト1位でプロに行く」

首都大学野球リーグの戦いでは、1年秋から3年秋までの4季(昨年春は中止)通算で、8勝4敗、防御率1.07と、エースと呼ぶにふさわしい結果を残してきた。しかし、最終学年となった今年度の春は、2勝4敗で防御率2.63。そんな佐藤について、「状態が良くない」と見る向きもあったが、当の本人はそうした声をきっぱりと否定した。

「初戦はしっかり抑えることができましたし、1試合目はエース対決になってロースコアで試合が進む形が多かった。もちろん、抑えるべき場面で抑えられなかった反省点や、チームを勝たせることができなかったという責任は感じています。でも、東海大戦を除けば、ある程度ゲームメイクはできましたし、春のリーグを通して、僕自身はそこまで内容が悪かったとは思っていません」

4年後にドラフト1位でプロに行く――。大学進学を決める際に掲げた目標は、これまで一度も揺らぐことはなかった。試合に負けた時はもちろん、2年の秋季リーグ終盤に右肘を痛めた時も、新型コロナウイルスの影響でまともに野球をできず、先が見えない日が続いていた時も、佐藤の心は1つだった。

春の開幕戦では武蔵大を被安打3で完封した(撮影・朝日新聞社)

最初にプロ入りの思いが芽生えたのは、仙台高校3年だった春から夏にかけての時期だった。強豪校ではなかったにもかかわらず、「スカウトの方が試合や練習を見に来たり、取材を受けたりし、意識するようになった」という。報道などでもドラフト候補として名前が挙がっていたが、佐藤は結局、その時はプロ志望届を提出しなかった。

「進路についてはギリギリまで悩みましたが、高校でしっかり勝ち切れなかったというのが1つ。それに当時は、プロに行って活躍できるというほどの自信がなかった。プロ野球は、迷いがある中で行くような世界ではないですし、高校生だろうと大学生だろうと、プロに行く選手は行くという言葉もいただていたので、4年後に良い形でいければという思いで、大学進学を決めました」

大学に行くなら筑波大と、早い段階で決めていた。「高校が私立の強豪のようなやらされる環境ではなく、アドバイスをもらいながらも自分で取捨選択しながらやるというスタイルだったので、同じような雰囲気の筑波大は自分に合っている」と感じたからだ。さらに、硬式野球部監督で動作解析の第一人者でもある川村卓准教授を始め、スポーツや運動の専門家や研究機関が充実している。「野球やプロ野球選手を引退した後のセカンドキャリアにも生かせる」という考えもあった。

1年目の秋から準エースとして活躍

筑波大硬式野球部に加入した当初は、「1、2年生の段階でしっかり体作りをして、3、4年生で実績を作るというイメージでいた」という。しかし、そのプランよりはるかに早く訪れたチャンスを佐藤は確実にものにした。1年生の秋季リーグ開幕戦、武蔵大との2回戦で初登板初勝利を飾ったのを皮切りに、リーグ戦5戦に先発し、3勝をマーク。「しっかり投げることができた」とつかんだ自信を力に、2年生の春季リーグ・武蔵大1回戦まで44回3分の2連続無失点という快記録につなげた。

2年の夏ごろからは球速も増した。それまでは146キロが最速だったのが、150キロを超えるようになったのだ。速球派サウスポーとして注目度は一気に高まったが、佐藤自身は「スピードにそれほどこだわりはない」という。

「もともとコントロールピッチャーでやってきたので、その軸はぶらさずに、変化球とストレートをうまく組み合わせながら、しっかりと内、外に投げ分けるというのを心掛けてきました。自分はストレートだけで通用するピッチャーだと思っていませんし、何より抑えることが重要だと思っています」

その考えに至った背景には、高校2年の秋季地区大会で仙台東高校に敗れた苦い経験がある。その試合で佐藤は10個の四死球を出し、5失点。センバツへと続く県大会進出を果たせなかった。「そこまで大荒れする投手ではなかったけれど、その時は力みもあって崩れてしまった」という反省から、冬季練習ではもう一度、フォームとコントロールを見つめ直した。

自らの弱みをしっかりと見つめ、成長につなげてきた

「具体的に取り組んだのは、バドミントンのシャトルをつるして、それに向かって投げる的当てのような練習です。3球連続で当たったら、2.5メートルずつ下がる。そうやってフォームを固めながら、かつ1点にボールを集めるということを高い集中力で続けました」

四死球が敗因となった点には、チームメイトに対する申し訳なさもあったが、「あの負けがあったからこそ、春にしっかりやろう、勝ち抜こうという思いが高まりました。あれで自分はもう一つ、成長できました」と、その後に大きく飛躍するきっかけになった。

佐藤はそれほど多彩な球種を持つタイプの投手ではない。今はチェンジアップも加わったが、1年生の頃は「ストレートとスライダーだけ」で、今ほど球速もなかった。それでも準エース格の投手として、「コースを突きながらうまく投げることができた」のは、高校時代に磨いたコントロールと安定した投球フォームの成果に他ならない。

自分自身が抑えれば負けることはない

2年生だった2019年の夏には、大学日本代表に選ばれ、日米大学野球選手権に出場した。「高校の頃は自分がそこまで行けるとは想像もできなかった」と言いながらも、佐藤は全5試合に中継ぎで登板し、計6回を自責点0。「日の丸を背負って戦うことが誇りでしたし、いずれメジャーに行って活躍するような選手が多いアメリカ打線に、自分のボールが通用したことは自信になりました」と振り返る。

3勝2敗で3年ぶりに優勝した当時のチームには、大会の最高殊勲選手賞に輝いた森下暢仁(明治大、現・広島)や牧秀悟(中央大、現・横浜DeNA)など、のちにプロ入りし、現在はチームの主力として活躍している選手が少なくない。その1人である早川隆久(早稲田大、現・東北楽天)を、佐藤は「理想の投手像」に挙げた。「木更津総合高校時代の早川さんがセンバツで投げている姿を見て、自分と同じようにコントロールで勝負しているなと思って、意識するようになりました」

さらに大学では、「筑波大がそこまで打つチームではなく、投手で勝たなければいけない」という思いから、「(失点)0に抑えるこだわりが強くなった」とも感じている。佐藤がこれまでのリーグ戦で通算10勝を挙げているが、そのすべてで自責点0をマークし、6勝が完封勝利である。仮に4年前、強力打線が売りの大学に進んでいたら、今の佐藤はいなかったかもしれない。

大学ラストシーズンは「勝ち」にもしっかりとこだわっていく。目標は日本一だ

大学生活も残すは、明治神宮大会出場が懸かる秋季リーグ戦だけとなった。高校時代は甲子園を目指しつつも、「勝つことがすべてだと思っていなかった。もちろん、勝つために頑張っていましたが、自分自身が満足感や充実感を得るとか、仲間と一緒にやることが重要だった」。中学時代に軟式野球で県選抜入りするなど活躍しながら、強豪の私学に進まなかったのも、そうした思いがあったからだ。

そんなメンタリティーも大学野球に身を置く中で、「チームは日本一が目標なので、しっかり勝てる投手にならないといけない。自分自身が抑えれば負けることはないと思っています」と変わった。プロを目指すなら、変わらなければいけなかった部分でもあるだろう。

今秋のドラフトで指名を受けたら、どんなプロ野球選手になりたいのか。
「大学からプロに行くということは、即戦力と期待されていくということになります。先発なのか中継ぎなのかはチーム事情にもよりますが、1年目からしっかり活躍できる投手になりたい。新人王などの目標も持って臨みたいと思っています」

ラストスパートに入った筑波大学での日々ではあるが、佐藤はここまでの歩みに思いを馳せたりはしていない。チームの勝利を目指し、自身をアピールする場となる秋季リーグ戦に向けて、猛暑の中で鍛錬を積んでいる。

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