陸上・駅伝

東京五輪で浮かんだ顔、競技と研究をつなぐため大学院へ エディオン・木村文子(下)

けが明けの木村は、本当にパフォーマンスを発揮できるのか、不安も抱えながら東京オリンピックの選手村に入った(撮影・池田良)

木村文子(33、エディオン)は7月2日、東京オリンピック女子100mH日本代表に内定し、感謝の思いを胸に、自身2度目となるオリンピックに向けて調整を始めた。今シーズンはけがから始まり、痛みを我慢しながらレースを重ねていた。ただ6月の日本選手権を終えたあたりから、今の自分の体でどの程度の練習をしたらどの程度の張りが残るかがつかめるようになり、復調の兆しを感じた。

普段は広島を拠点にしているが、東京で試合がある時や国際大会に出場するために羽田・成田空港を利用する時は、母校の横浜国立大学を訪れている。東京オリンピックの前にも母校のグラウンドを訪れ、後輩たちや伊藤信之顧問、OBOGからエールを送ってもらった。

東京五輪延期で大会に出ず、集大成の年がけがで始まった エディオン・木村文子(上)

「何秒で走ったかはどうでもいい」

選手村に入ったのが7月29日。予選は2日後に迫っている。コロナ禍でアメリカのコーチと顔を合わせるのも久しぶりだった。そのコーチは木村は会ってすぐ、こう話してくれた。

「オリンピックという舞台で君が何秒で走ったか、そんなことは誰も覚えていないだろう。でも東京大会で木村文子という選手が走ったということは覚えてくれると思う。だったらその瞬間を楽しめなかったら意味がない。何秒で走ったかはどうでもいいから、その瞬間を楽しめるようなレースをしなさい」

コーチにそんなことを言われるのは初めてだった。地元開催のオリンピックで、木村が色々なものを背負って戦おうとしているのを感じ取ってのことだったのだろう。木村が100%のコンディションではないことも理解してくれている。木村自身、その考えは全くなく、予想を超えたアドバイスに驚いてしまったという。「楽しめるようなレースをする」。木村は改めていいコーチに出会えたと感じた。

世界の舞台に立ち、たくさんの人たちの顔を思い浮かべ

迎えた予選、スタートラインに立った木村はやや険しい表情をしているように見えたが、心の中ではずっと、これまで陸上を通じて出会ってきた人々のことを思い出していた。9年前のロンドンオリンピックでは1人でこの舞台に立った。そして今は国外にも多くの人々とのつながりがある。「9年かけて、自分のものにできたな」。木村はそんなことを考えていた。

9年前のロンドンオリンピックは時間を巻き戻してほしいと感じるほど、後悔の残るレースだった(撮影・朝日新聞社)

2017年の世界選手権(ロンドン)で準決勝を走って以降、「世界の舞台で1本でも多く走りたい」という思いでレースに臨んできた。今大会でも準決勝を目指していたが、予選の終盤で隣と接触し、13秒25で7着だった。木村の自己ベストは13年にマークした13秒03。自分もこの舞台で12秒9台~13秒0台が出せていたら準決勝に進めていたのか、と思うと悔しさが募る。それでも、レース後のインタビューでは他の選手の名前を出しながら、国内における100mHのレベルが上がっていることに触れた。

寺田明日香(ジャパンクリエイト)や青木益未(七十七銀行)にはレース前、100mHを3人で走れることがうれしいと感じていることは伝えていなかった。「2人にとっては初めてのオリンピックだし、どう感じるかは選手それぞれだろうからあまり多くのことを私からは話していませんでした」。また今大会はコロナ禍で開催されたことで思うところも多く、世界の選手と肩を並べて走れることは当たり前のことではない、と改めて感じた。

13秒25での予選敗退に、木村は「タイムは残念かもしれないが、9年前の自分と比べるとオリンピックに出て成長させられていると感じた」と言った(撮影・池田良)

大学院で英語の論文を読み、マネジメントを学ぶ

世界での挑戦が東京オリンピックで一区切りとなった今、木村の思いはどこにあるのだろうか。本来であれば9月、広島代表として国体に出場する予定だったが、国体は昨年に続き今年も中止となった。落胆はあるが、今は広島大学大学院での学びに気持ちを向けている。木村は昨年10月、人間社会科学研究科人文社会科学専攻人間総合科学プログラムの博士課程前期に入学した。修士課程に当たるもので、スポーツ心理学を専門とする関矢寛史教授の下で学んでいる。

実業団の選手として競技を続ける中で、木村は競技の面でも精神的な面でも「これってどうなんだろう」と感じることが増えていた。「その度に専門の方にデータを出してもらい、アドバイスを受けていたんですけど、競技の現場と研究の現場をしっかりつなげるためにも、自分が一度、研究の世界にいった方がいいのかなと思うようになりました」。そして昨年、東京オリンピックが延期になったことを受け、このタイミングならと考えた。

学びはスポーツ心理学だけでなく、社会心理学やアスリート・アントラージュ(アスリートを取り巻く人的環境)など多方面にわたり、中でも木村はチームの組織作りなど、マネジメントについて知識を蓄えている。入学してすぐのタイミングは対面で学んでいたが、コロナの影響で今はオンラインでの講義やゼミが続いている。

木村が横国大を卒業したのは11年のこと。再び学生となり、10歳ちかく離れた学生とともに学ぶ日々は新鮮だと話す。「学部生は遠慮しているようであまり話をする機会がないんですけど、ドクターの学生は年下でも先輩ですし、『教えてください』という感じです」と木村は笑いながら明かす。

学部生だった時はそれほど多くの論文を読むことはなく、その論文も日本語で書かれたものばかりだった。しかし特にマネジメントの論文は海外のものが多く、どうやって読み込むかというところから始まる。論文を読んで意見をし合うゼミもあるため、ゼミ仲間の協力は欠かせない。苦労も多いようだが、今だからできる学びであることは間違いないだろう。

木村にとって大学院での学びは、セカンドキャリアに向けての準備という意味もある(撮影・北村浩貴)

いつかは世界で戦える選手の育成を

横国大の学生だった時、木村の夢は高校教師だった。そして日の丸を背負う選手となり、2度のオリンピックを経験した。33歳の木村に改めて夢を聞いたところ、「難しいですね」とまず口にした。

「東京オリンピックですごく感じたことなんですけど、日本の人たちだけでなくアメリカに住んでいる人たちからも『見たよ!』って言ってもらえて、陸上で世界を目指そうとずっとやってきて、国内に留まらずにやってきた成果なのかなと思いました。語学ができなくても世界に出られる方法はあるだろうし、せっかく陸上をやっているんだったら、いろんな世界を見てほしい。その意味で、世界に出られるような選手の育成に興味があるんだと思います」

自分を支えてくれた指導者のように、今度は自分が若い世代の力になる。これから目指す道が少しずつ見え始めているようだ。

東京オリンピックでのレース、スタートラインに立った木村はこうも感じていた。「自分のことを抜かしたいと思ってくれる人が増えたらいいなと思ってて、それが形になっているのが目に見えるのはうれしいな」。それを笑顔で話してくれるのが、木村文子という選手なのだ。

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