陸上・駅伝

特集:いざ、東京オリンピック・パラリンピック

東京五輪延期で大会に出ず、集大成の年がけがで始まった エディオン・木村文子(上)

木村はこれまでに日本選手権を6度制し、ロンドン大会と東京大会で2度のオリンピックを経験している(撮影・藤井みさ)

「9年前は1人でロンドンオリンピックに出て、女子はなかなか世界では戦えないと言われ続けてきたんですけど、ロンドンの世界選手権は紫村(仁美)選手と出て、今回は青木(益未)選手と寺田(明日香)選手の3人で出ることができて、日本の女子もきっと世界で戦えると思ってもらえたらすごくやってきた甲斐があるな、と思いながらスタートラインに立てたかなと思います」

木村文子(33、エディオン)にとって、東京オリンピックは集大成となる舞台だった。ベストコンディションで臨めたわけではない。悔しさもある。それでも、女子100mH予選を走り終えた直後、木村の口からは自然とそんな言葉が出た。

広島から横浜国大へ「高校教師になりたかった」 エディオン・木村文子1

日本人初となる世界選手権100mH準決勝を経験

木村は2011年に横浜国立大学を卒業し、地元・広島のエディオンに所属して競技を続ける道を選んだ。翌12年にはロンドンオリンピックに出場。それまでに木村が日本代表として走ったのは11年のアジア選手権(神戸)のみ。木村自身、「本当に自分でいいのか」とまで思ってしまったという。たった1人で臨んだレースは、13秒75での予選1組7着で終わった。

13年のアジア選手権(インド)で優勝し、14年のアジア大会(仁川)では銅メダルを獲得。14年にはアメリカ・アリゾナ州フェニックスに初めて遠征し、このころより、男子110mHの世界記録保持者であるアリエス・メリットのコーチから指導を受けている。そして17年の世界選手権(ロンドン)、木村は女子100mHで日本勢初の準決勝進出を果たした。5年前のロンドンオリンピックに比べて世界の選手たちとの戦い方を知っていたこともあり、ワクワクした気持ちで木村はスタートラインに立った。準決勝は13秒29で8着だったが、「幸せな時間だった」と振り返る。

世界選手権100mH準決勝、木村(中央)は世界との差を感じながらも、その瞬間を楽しむことができたという(撮影・池田良)

ただ、木村にとって世界選手権準決勝はあまりにも大きなものだった。「その後、国内の大会に新鮮な気持ちで臨めない自分がいました。2018年と2019年、楽しさが半減するような時期が続いてしまって、本来であったらどんな試合でも新鮮な気持ちでワクワクしながらレースに臨めたらよかったんですけど……」。それまでであれば大会が近づくにつれて自然と緊張が高まっていたが、意識して高めないと緊張しないようなことが続いた。選手としての危うさを、木村自身も感じていた。

葛藤を抱えながらも、19年の日本選手権で6度目となる優勝を果たし、同年の世界選手権(ドーハ)には寺田明日香(ジャパンクリエイト)とともに挑んだ。そして昨年、東京オリンピックに向けて気持ちを盛り上げていたところに新型コロナウイルスが猛威を振るい、大会が1年延期となった。自分で自分を緊張させることに疲弊してしまうのではないか。木村は19年シーズンの内にポイントを獲得できていたこともあり、昨シーズンは広島での2つの記録会だけにとどめ、日本選手権にも出場しなかった。

東京五輪延期、地元の高校生に救われた

不安がなかったわけではない。特に100mHでは寺田が19年に日本新記録を樹立し、青木益未(七十七銀行)も目覚ましい活躍を見せていた。そんな中、「高校生にだいぶ救われました」と木村は言う。地元の高校生で、その年に本格的に100mHの練習を始めた選手だった。

「最後まで(インターバルを)3歩でいけるように一緒に練習してて、いけるようになった時は相当喜びました。そしたら自己ベストがバンバン。『今度は中国大会に出たい』と言ってて、あれ?この前は県総体準決勝落ちだったはずだよなって。自分の話している世界がドンドン変わっているのが素直にいいなと思いました。目標を設定することも大事だけど、その子のベストパフォーマンスを出してあげるというのが、選手にとって一番大事なのかなと教えられました」

19年シーズンは世界選手権(ドーハ)で終え、20年は2つの記録会のみ、今シーズンは2月のJAG大崎から走り続けてきた(撮影・池田良)

今年に入ってから右膝(ひざ)裏を痛めたものの、3月の日本選手権・室内では60mHで8秒12の室内日本歴代2位タイをマーク。出力を高めると脚に張りが出てしまうこともあり、80%の出力で練習を継続してきた。4月29日に地元・広島で行われた織田記念ではB決勝にまわっての1位(13秒30、追い風参考)。6月1日の木南記念では寺田が12秒87で自身が持つ日本記録を更新し、木村は13秒29で4位。6月6日の布勢スプリントでは青木が12秒87の日本タイ記録をマークし、木村は13秒18だった。

「いつもの木村さんのスタイル」で

痛みはまだあったが、東京オリンピックのために少しでもポイントを稼がなければいけなかった。焦る気持ちもあった中、横国大時代の恩師である伊藤信之顧問はこう言ってくれたという。

「木村さんという選手は周りの選手とちょっと違う。オリンピックにどうしても出たい、オリンピックは特別、と思っている選手が多い中、木村さんは陸上を夢中でやっていたら(ロンドン大会に)出られたという感じだった。だから(東京大会に)絶対出たいと思わずにやり続けたらいいんじゃない? 目の前のレースをしっかりとこなした先にオリンピックがあるというのが、いつもの木村さんのスタイルというか。そういう選手だと思って接してきたんだよ」

選手としての自分のことを理解してくれる人がいる。その言葉に肩の荷が下りた。

木村は横国大4年生だった10年の日本インカレで13秒28の大会新記録で初優勝し、そこから急激に力をつけ、ロンドンオリンピックに届いた(撮影・朝日新聞社)

布勢の後に脚が固まってしまい、応急処置をして6月24日開幕の日本選手権を迎えた。東京オリンピックをかけたラストレース、木村は準決勝1組で13秒47、7着で終えた。

日本選手権から1週間、木村は日本代表に選ばれるという期待もなく過ごしていた。そして7月2日、40と定められていたターゲットナンバーの内、木村はその40番目で日本代表に内定した。「もう一度、世界の舞台で走る機会がもらえることにすごく感謝しました」。木村の素直な気持ちだった。

東京五輪で浮かんだ顔、競技と研究をつなぐため大学院へ エディオン・木村文子(下)

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