陸上・駅伝

特集:東京オリンピック・パラリンピック

父が指導する会津高で全国2位、東京五輪は見えていなかった 早稲田・山内大夢(上)

山内は大学ラストイヤーの今年になって急成長を遂げた(撮影・松永早弥香)

「家族の夢、目標を達成できたのがうれしかった」。山内大夢(ひろむ、早稲田大4年、会津)は東京オリンピック男子400mH日本代表に選ばれた瞬間の気持ちをそう表現した。初めて立ったオリンピックの会場は、相性の良さを感じていた国立競技場。「思いっきり楽しんでこい!」と背中を押してくれた両親の思いも胸に、予選、そして準決勝を駆け抜けた。東京オリンピックの開催が決まったのは2013年。当時、中2だった山内にとってはキラキラと輝く別世界だった。

サッカーをしながら全中出場

山内は福島県会津若松市で生まれ育った。父・淳一さんは110mHで日本選手権4位、母・三重子さんは400mHでインターハイ優勝と800mで日本インカレ2位になるなど、ともに第一線で活躍し、その後も高校教師として学生を指導してきた。そんな両親の影響を受け、山内は競技を問わずスポーツに親しんできたが、とりわけ陸上に対する思いは強かった。「小さい時に両親が指導する高校に連れて行ってもらうことがあったんですけど、高校生が一緒に遊んでくれたり走ってくれたりして、自然と陸上が好きになっていきました」

小1で陸上生活をスタートしたが、低学年の時は長距離しか選べず、山内は地域のマラソン大会にも出場。学年が上がるにつれて自分よりも速い人が増えていき、「短距離も得意だし、100mってかっこいいな」という気持ちから、小5の時に短距離へと種目を変更した。小6の市大会では80mHに出場し、山内は優勝をつかんだ。思えばその頃からハードルに面白みを感じていたという。

ただ、地元の河東中学校(福島)には常設の陸上部がないことは知っていた。だったらと小5の時にサッカーを始め、中学校では常設のサッカー部とともに特設の陸上部に入った。陸上部の練習は朝のみだったため、多くの時間をサッカー部で過ごし、山内はキーパー以外は何でもこなすオールラウンダーとして活躍。その一方で、中1の時から陸上の大会にも出場していた。

サッカーではなかなか勝てなかったが、400mを専門にしていた陸上では徐々に記録も出始めたこともあり、両親はサッカーでけがをしないかと心配していたそうだ。「サッカーは大会に負けて早めに引退したんですけど、止まってからのダッシュとか、持久力とかは結果的に400mにつながっていたのかな」と山内は振り返る。その中3の時に全中で自身初となる全国大会に出場。 あまりの緊張に吐きそうになりながらスタートに立ち、51秒07での予選5着で終わった。

父が指導する会津高校で鍛えられ

「部活だけじゃなくて勉強もできないとダメだよ」と小さい時から両親に言われてきた山内は、部活とともに勉強も積み重ね、福島県内有数の進学校である会津高校に進学。父が陸上部の指導をしていたことも1つの理由だった。毎日、父と一緒に車で通学し、車を一歩出れば、教師と生徒。「父さん」は「山内先生」に変わる。「敬語を使わないといけないし、最初はものすごく違和感があったんですけど、次第に慣れました」と山内は明かす。

「自分が勝負するなら」という気持ちから、山内は高1の夏に初めて400mHの練習に取り組んだ(撮影・藤井みさ)

まずは400mを走り切る基礎体力をつけ、高1の夏から400mHの練習を始めた。「中学の時に400mである程度勝負できたし、元々やっていたハードルと組み合わせた400mHだったら全国を狙えるんじゃないかな、と思いました。両親もやっていたと聞いて、やっぱり自分に合っているんじゃないかなって」。膝まで雪が埋まる冬季には「雪上走」というダッシュも取り入れ、量と質、ともに高い練習をこなしてきた。

高2のインターハイは準決勝敗退。最後のインターハイを迎えるにあたり、父とは「3位以内」を目標に掲げて調整を続けた。同期には高2でインターハイを制した白尾悠祐(当時・東農大二、順天堂大4年)と同大会で400m準優勝の井上大地(当時・東京、日大4年)がおり、その2人に続く3位に入れば御の字だろうと。迎えたレース、井上は400mHを欠場し、決勝には山内と白尾が出場した。白尾は序盤で首位に立つとそのまま後続を引き離し、山内は2位に追い上げ、51秒97でゴール。「2番なのに喜びすぎで、優勝したくらいに喜んでいた」と山内は笑いながら振り返る。

でもやっぱり勝ちたいという気持ちはあった。そのインターハイの後にあった全国選抜300mHでは「優勝」だけを目指し、初めから突っ込むとそのまま逃げ切り、36秒41の大会新記録とU20日本記録(ともに当時)を樹立。初めて全国大会で優勝をつかんだ。

けがをしやすい体と向き合い、分析で競技力を高める

進学先を早稲田大に決めたのは最初に声をかけてもらえたというのもあったが、リオデジャネイロオリンピック男子400mHセミファイナリストの野澤啓佑(ミズノ)や早稲田大在学中に17年世界選手権(ロンドン)男子400mHに出場した石田裕介(日立産機)など、世界で活躍する先輩たちの存在が大きかった。礒(いそ)繁雄監督に早稲田大の練習メニューを聞いたところ、高校時代と同じように走り込みもした上で、質を高める技術練習に重きを置いているところにも共感し、「400mHなら早稲田がいいな」と思うようになったという。実際に入部してからはイメージ通りの練習ができ、気持ちもより一層引き締まった。

しかし1~2年生の時はけがが絶えなかった。大学に上がってからも高1の時に発症した椎間板(ついかんばん)ヘルニアに悩まされ、冬季のひどい時には体を動かすのも一苦労だった。更にハムストリングスを痛めるなど、けがをしやすい体だったという。自分の体と向き合うため、スポーツ脊椎外科医でもあるスポーツ科学学術院の金岡恒治教授に診てもらい、学内のスポーツ医科学クリニックを利用しながらリハビリに取り組んだ。

「どうヘルニアと向き合っていくかという日々だったんですけど、対処法をしっかり学べたことが後に、けがをしない体作りにつながったと思います。得た学びを実践できたことが再発防止になり、結果的にうまく体を使うことにもつながっています。競技者として、またスポーツ科学部で学ぶ1人として、最高の環境で過ごさせていただいています」

けがはあったものの、1年、また1年と練習を積む中で走力とともにハードル技術も高まり、とりわけタッチダウンタイム(スタートから各ハードルを飛び越えて着地するまでのタイム)を細かく分析することで、より戦略的に400mHという競技を戦えるようになったという。昨年は新型コロナウイルス感染症拡大により、様々な大会が中止・延期となったが、その間に競走部全体でレース分析に力を入れたことで、どこを強化するかがより明確になった。山内は来たるべき時に向けて練習を継続し、9月の日本インカレでは49秒89をマークしての4位。翌10月には日本選手権に初出場し、50秒50で5位。その直後にあった関東インカレでは51秒39で優勝を果たした。

日本選手権4位、不安な1週間の先にあった未来

学生ラストシーズンを前にして、冬季練習では「絶対にけがをせず練習を完遂する」ことを目標に掲げ、特にヘルニア対策として腹圧を高めて体幹を安定させることを意識してきた。そして今年5月、「READY STEADY TOKYO」で48秒84の自己ベストをたたき出し、東京オリンピック参加標準記録を突破。一気に日本代表候補に躍り出た。

2学年下の黒川(左)もまた、大学で頭角を現した選手だ(撮影・松永早弥香)

ただその前には、48秒68でゴールした黒川和樹(法政大2年、田部)がいた。黒川には今シーズン、4月の東京六大学対校でも、5月の静岡国際と関東インカレでも僅差(きんさ)で敗れ、昨年の日本インカレでも黒川は2位で山内に先着している。もっとさかのぼると、山内がたたき出した300mHのU20日本記録は、0.01秒差で黒川に塗り替えられた。

6月の日本選手権は、参加標準記録を突破した上で3位以内に入れば東京オリンピック決まるというレースだった。参加標準記録突破者は4人(黒川、安部孝駿、豊田将樹、山内)。特に黒川にはなんとしても勝ちたかった。運命のレース、黒川はスタートから抜け出し、そのまま首位でゴール。山内は49秒48で4位だった。

日本選手権から日本代表選手の発表があるまで、「決まるか決まらないかギリギリのラインにいたので、不安定な気持ちで1週間を過ごしていました」と山内は言う。最終的には、日本選手権で日本代表に内定した黒川と安部とともに、世界ランキング22位に入った山内が選ばれることになった。陸上を始めるきっかけとなった両親は、国際大会に出場したことがなく、その夢を息子・大夢に託した。東京オリンピック日本代表内定の瞬間は、山内家の夢が叶(かな)った瞬間だった。

日本代表は山内家にとっての夢だった(撮影・池田良)

振り返ると高校を卒業する前、山内は福島テレビの番組で夢を聞かれて「2020東京オリンピック出場!!」と答えたが、実のところ、当時はそんな未来は見えていなかったという。「自分なんかよりも強い選手が何人もいたので、それよりは全国のタイトルをとるというのがステップだろうなと思っていました。でもここで全国1位とか言うのはちょっとださいかなって(笑)」。18年春、当時は見えていなかった未来に、山内はいた。

東京五輪の準決勝、悔しさがあった自分はまだ上を目指せる 早稲田・山内大夢(下)

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