天才少女・イケクミは山形の陸上一家で育まれた 井村久美子・1
「イケクミ」の愛称で呼ばれ、その強さとしなやかさで多くの陸上ファンを魅了した選手がいました。井村久美子さん(旧姓池田、38)は小学6年生のときに走り幅跳びで5m18をマークして注目を集めます。各年代で日本一に輝き、2008年北京オリンピックに出場。現在も6m86の日本記録を持っています。それでも、決して順風満帆の陸上人生ではありませんでした。井村さんの学生時代を中心に、4回の連載で振り返ります。
父が教えてくれた走る楽しさ、跳ぶ楽しさ
井村さんはグッドアスリートの血を引く少女だった。父方の祖父である池田彌(わたる)さんは、第二次世界大戦で中止となった1940年東京オリンピック110mハードル(H)代表候補であり、父の池田実(みのる)さんもかつて走り幅跳びの選手だった。陸上一家に生まれ育った井村さんだが、もともとは体を動かすのが嫌いだったという。「幼稚園の運動会でおじいちゃんやおばあちゃんが来て、ビデオカメラで撮影しながら『がんばれ~』って言うのがすごく嫌でした。『来るな~』って泣き叫んでたぐらいです。いつもビリの方で走ってましたし」。井村さんは笑顔でそう思い出を語った。
それでも幼心に関心を持ったのが、陸上選手だったころの祖父に関する記事のスクラップ帳だった。ノートいっぱいに広がった祖父の姿に「へえ~、すごいなあ」という言葉が自然と出た。父の実さんは山形県酒田市で蕎麦(そば)屋を営みながら、週末になると地域のスポーツ少年団の小学生たちに、ボランティアで陸上を教えていた。井村さんも実さんが陸上を教えているのは知っていたが、「私は絶対やらないだろうな」と思っていたそうだ。
そんな気持ちが変わったのが小2のとき。何とはなしに朝練をしている実さんたちの姿を見ていたら、とっても楽しそうだった。ただただ「楽しそう」という理由だけで、井村さんもその輪に加わった。よく覚えているのがリレーの練習だ。3人1チームでそれぞれが約30mを走るリレーを8レースほどやって、速い順に高い点がもらえる。最終的に一番得点が高かったチームに、実さんがジュースをごちそうするというものだった。みんなで走って勝ったらジュースがもらえる。そんな分かりやすいご褒美もまた、速く走りたいという理由になった。
もうひとつ、井村さんにとって陸上の原体験となったものがある。それがゴム跳びだ。蕎麦屋で忙しい両親は休日も休めず、遊びたい盛りの井村さんと弟は暇をもてあましていた。そんなふたりのために、実さんは店の側にあった4m幅ほどの路地にゴムを張り、即席のハードルコースを作ってくれた。飽きることなくピョンピョンと跳ねていた遊びが、自然と井村さんの跳躍力を養ってくれた。
末續慎吾さんを短距離に転向させたビッグジャンプ
井村さんは初めて競技場に行った日のことをよく覚えている。小2のときに近所の競技場を訪れ、タータンの柔らかい感触に驚いた。そして実さんが「見てろよ、跳ぶぞ」と言って、走り幅跳びを披露。初めて目にしたその跳躍に「えっ! すごい!! 人ってこんなに跳べるんだ」とまた驚いたという。陸上の楽しさを知った井村さんは走り幅跳びをメインに練習して、県大会、そして全国大会へと出て行った。競争そのものは決して好きではない。でも、もっとがんばったら、もっと楽しいことが待っている。それが陸上へのモチベーションになっていた。
小6のときには全国小学生交流大会で5m18を跳んで優勝。「山形にものすごい天才少女がいる」と話題になった。井村さんはこのとき「生涯結婚しないで、絶対走り幅跳びだけやろう」と心に誓ったという。この大会には、のちに2003年パリ世界陸上の男子200mで銅メダルを獲得することになる末續慎吾さんも走り幅跳びに出場していた。井村さんの記録を下回った末續さんが、この日を境に短距離へと種目変更したのは有名なエピソードだ。
天才少女の快進撃、その裏にあった複雑な思い
中学生になっても勢いは止まらなかった。地元の酒田市立第三中に進んだ井村さんは、父がボランティアで指導する陸上部に入った。1年生のときに当時の年齢別世界新記録(12歳)となる5m97を跳び、全日本中学選手権で3連覇を果たした。とくに3年生のときには走り幅跳びで6m19、100mジュニアハードルで13秒78と、当時の日本中学記録も塗り替えた。大会に出るたび記録を伸ばし、「天才少女」と呼ばれた時期だ。それでも本人は「天才=すごい」というぐらいにしか感じていなかった。「プレッシャーはなくて、純粋にみんなが『すごい』と認めてくれる言葉なんだなと思ってました」と振り返る。
その一方で、井村さんは思春期ならではの悩みを抱えていた。「自分が飲んだジュースを父が飲もうとすると『絶対やめて』って言ってましたし、『1m以内には寄らないで』とか、『同じことを何回も言わないで』とか、めちゃくちゃ言ってました。友だちといる環境の中に父がいるのも、本当に嫌でした」。自分の好きな陸上と思春期特有のいらだちとの間で板挟みになっていた。
高校ではさらに高い競技力を求め、山形で陸上の強豪として知られていた日大山形に進んだ。酒田市の実家から通うと片道2時間以上かかるため、陸上部の先生の知り合いが運営するレストランに下宿することになった。
解放感に包まれていた井村さんはしかし、この高校時代に大きな試練を迎えることになる。