北京五輪前の同期との別れ、父は超えられなかった 井村久美子・4完
「イケクミ」の愛称で呼ばれ、その強さとしなやかさで多くの陸上ファンを魅了した選手がいました。井村久美子さん(旧姓池田、38)は小学6年生のときに走り幅跳びで5m18をマークして注目を集めます。各年代で日本一に輝き、2008年北京オリンピックに出場。現在も6m86の日本記録を持っています。それでも、決して順風満帆な陸上人生ではありませんでした。井村さんの学生時代を中心に、4回の連載で振り返ります。最終回は実業団を経てつかんだオリンピック出場、そしてその後についてです。
あこがれのドレクスラーに舞い上がり
福島大3年生だった2001年の日本選手権で、井村さんは6m78を跳び、6m61の日本新記録を大きく上回った。しかし1回目の跳躍で花岡麻帆さんがマークした6m82は上回れず、2位にとどまった。同年8月にカナダ・エドモントンで開催された世界陸上には、ふたりそろって出場した。井村さんはこれを「大学時代にターニングポイントとなった大会」と振り返る。
女子走り幅跳びには、1992年バルセロナと2000年シドニーの二つのオリンピックで金メダルを獲得していたハイケ・ドレクスラー(ドイツ)もいた。井村さんが小6だったころ、テレビにかじりついては彼女の跳躍を見て、何度もまねていた。「そんなあこがれの選手がすぐそばにいると思うと、自分の試合以上に緊張してしまいました」と、笑って振り返る。
花岡さんとドレクスラーは予選敗退となったが、井村さんは6m49を跳んで決勝進出。決勝では11位に終わったが、世界の舞台で着実にステップを踏んだことを実感した。
幅跳びとハードル、両方取り組んだからこそ
井村さんは走り幅跳びと並行して100mハードル(H)にも取り組んでいた。競技を続ける中で、より世界に近かった走り幅跳びに比重を置くようにはなったが、ハードルもあったからこそ、幅跳びの記録が伸びたと感じている。幅跳びをやっていて「なんか、さえないな」と感じるとハードルを跳び、すっきりした気分になれた。その結果、幅跳びとともにハードルも記録が伸び、3年生の日本選手権では、福島大の先輩である茂木智子さんが持っていた学生記録に並ぶ13秒38で優勝している。
その延長で3年生のときに1度、七種競技にも出場した。「私は不器用だから、あのときだって投てきはできなかったんです」と井村さん。それでも急に「やるぞ~」と気合いが入り、エントリーしたという。走り高跳びではさみ跳びで1m50以上を跳び、幅跳びと100mH、高跳びでごっそり稼いだ。その時の4709点は現在も福島大記録として刻まれている。「楽しい陸上が原点」という井村さんらしいエピソードだ。
海外遠征が多かった井村さんは福島大の仲間と一緒に練習する機会は決して多くはなく、最上級生としてチームを支える立場になっても、「私はいないと思って」と同期のメンバーに伝えていたほどだった。それでも最後の全日本インカレには「みんなにとって最後の大会だから」という気持ちで臨んだ。100mHは13秒46という当時の大会新記録で優勝し、走り幅跳びは6m20で3連覇を達成。ただそれよりもチームのみんなを応援する気持ちの方が大きく、仲間の活躍をともに喜んだ。
井村さんにとって大学での4年間は「世界を目指す中で、犠牲にするものもあることを実感した時代」なのだという。
「私は陸上がしたいから大学に進みました。自己記録、学生記録、日本記録を出す中で、世界で戦いたいという気持ちも芽生えて頑張れたけど、その一方で友だちに会う時間はなくなってしまいました。私はみんなと同じでいたいと思っても、現実にはそうさせてくれない。しょうがない、と割り切らないといけないことが多かったですね」
森千夏さんの思いを胸に北京五輪へ
2003年春に福島大を卒業した井村さんは、実業団のスズキで競技を続けた。当時、女性アスリートを雇用する実業団は数えるほどしかなく、スズキも井村さんからの働きかけでやっと受け入れが決まったという状況だった。実業団で力を蓄え、06年の国際グランプリ大阪大会でマークした6m86は、現在も日本記録となっている。翌07年の織田記念では100mHで日本歴代3位の13秒02をマーク。そして08年、幅跳びで北京オリンピックの切符を手にした。
井村さんはこの北京オリンピックを、スズキに同期入社した森千夏(ちなつ)さんとともに目指していた。森さんは女子砲丸投げで04年アテネオリンピックに出ていた。しかし森さんは06年、虫垂がんに冒され、26歳の若さで他界。井村さんは森さんの葬儀で弔辞を読んだ。森さんの思いも抱え、井村さんは夢の舞台に挑んだが、6m47で決勝進出を逃した。
同年には全日本インカレ男子棒高跳びで優勝経験のある井村俊雄さんと結婚し、スズキを退社。三重県鈴鹿市を拠点にして競技を継続すると決めた。当時の井村さんとしては「走り幅跳びが嫌になったわけでもやり切ったという気持ちではないなら、あと4年だけ楽しみながらやりきろう」という気持ちだったという。ロンドンオリンピックの最終代表選考会でもあった12年の日本選手権は6m25で3位に終わり、2大会連続のオリンピック出場は果たせなかった。やめる時はきちんと言わないといけない。そう考えていた井村さんは13年の日本選手権で競技を終えたその日のうちに、現役引退を表明した。
父とともに歩み、その思いを子どもたちへ
いま振り返ってやり残したことはありますか? そう井村さんに尋ねたら「結局、私は父を超えられなかったんだと思います」との言葉が返ってきた。
走り幅跳びの選手だった父の実さんの自己ベストは7m04。実さんの指導の下で競技を続けてきた井村さんは「お父さんの記録を超えられたら、世界でメダルがとれるよ」という言葉がいつも頭の片隅にあった。そんな実さんは04年に他界。自分を支えてくれた実さんがいない不安に押しつぶされそうにもなった。困ったときにはいつも「お父さんだったらどうしただろう?」と考えを巡らせる。
井村さんは現在、夫の俊雄さんとともに子育てをしながら、スポーツと教育をかけ合わせた「イムラアスリートアカデミー」でジュニア世代を中心に指導している。それは昔、実さんが自分に教えてくれた「楽しい陸上」を体現する場でもある。2歳になる娘も跳ぶことが好きで「いつか7mを跳んでくれたら、うれしいですね」と井村さんは笑った。
第二次世界大戦で中止となった1940年東京オリンピックの110mH代表候補だった池田彌(わたる)さんから息子の実さんへ、そして孫の久美子さんへ、そしてひ孫にあたる娘へ。
池田家の「楽しい陸上」が、脈々と受け継がれていく。