陸上

連載:4years.のつづき

父の雄姿を見て始まった陸上の道 秋本真吾・1

秋本さんはいま、スプリントコーチとしてさまざまなスポーツのアスリートにも指導している

大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。学生時代に名をはせた先輩たちは、4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ8人目は、トップアスリートたちに走りの指導をする「スプリントコーチ」の秋本真吾さん(37)。1回目は陸上との出会いについてです。

陸上とバスケの日々、それでも心は陸上へ

子どもから一流アスリートまで、人の足を速くするスプリントコーチという職業に情熱を捧げる元ハードラーがいる。2010年、男子200mハードル(H)でアジアと日本の最高記録(当時)を樹立した秋本真吾さん。かつて、400mHのオリンピック強化指定選手にも選ばれた男はいま、スプリントの指導者として確固たる地位を築き、全国各地を飛び回っている。

出身は福島県双葉郡大熊町。走ることに興味を持ったきっかけは、幼稚園の年長で見た、ある光景だったという。「父親が町民体育祭でリレーを走って、ビリでバトンをもらって、全員抜いてトップでゴールしたんです。それに感動して、あとから父親に聞いたら、もともと100mの選手だったと。そこで初めて夢を持って、卒園アルバムには『陸上の選手になりたい』って書きました」

小学校に上がり、競技人生が始まった。大会に初めて出たのは5年生のころ。その双葉郡大会の100mで優勝し、翌年も優勝。成功体験を積み重ねた秋本さんにとって、陸上を続けるのはごく自然な流れだった。「中学でもやろうって思いはありましたね」。秋本さんは当時をそう振り返る。

秋本さんの陸上人生は100mから始まった(写真は本人提供)

ただ、中学時代の部活動はやや特殊なかたちとなった。進学先に陸上部がなかったため、秋本さんはバスケ部へ。陸上をやるには、バスケ部に入った上で「特設陸上部」として活動するしかなかった。陸上とバスケを掛け持ちする3年間を過ごすとは夢にも思わなかった秋本さんに、想定外の出来事が続いた。

「僕が入った中学では各競技とも、校内陸上大会で優勝した人が地区大会(双葉郡大会)に出られるルールがあったんです。当然100mに出たんですけど、結果は3位。100mで負けたのはそれまでの陸上人生で初めてでした。しかも、小6のときよりタイムが1秒遅くなってたんですよね。13秒8になっちゃって……。当時、その原因が分からなかったんですけど、あとから振り返って思い当たったのが成長痛です。それで100mの代表から漏れてしまって、結局、残された棒高跳びをやることにしました」

不慣れな棒高跳びが、身近なものに

現実を受け入れるまでには少なからず抵抗があった。それでも、秋本さんは前を向いた。「楽しいなって思う理屈って、それができるからなんですよね。できないとつまんなくなる。そういうサイクルが自分の中にはあったので、とにかく最初は、できないからつまんない、うまくいかないから面白くない、っていう感覚を変えようと思いました」

特設陸上部には棒高跳びの指導者がいなかったため、基礎技術は独力で習得。映像でトップアスリートたちの跳躍を見たり、父親に買ってもらった陸上の専門誌を眺めたり。できることはなんでもやった。そうして見よう見まねで学んだ知識を練習で落とし込んでいくうちに、不慣れだった棒高跳びが身近なものになった。

「最初はポールを曲げて跳ぶところまではなかなか落とし込めなかったんですけど、中3でその感覚がつかめるようになったんです。結果的に県で7番までいったんですよ。全中(全日本中学陸上)まではいけなかったですけど、最終的には『棒高跳びって面白いな。かっこいいし』っていう感覚になってましたね」

棒高跳びの力をつけつつあった秋本さんは、一方でバスケ部の主力としても活躍していた。中学2年生のときに初めて出た試合で38得点をマーク。点取り屋としての素質を十分に備えていた。それでも秋本さんは、バスケを続けようとは思わなかった。「個人で頑張る陸上が、自分には合ってる」。そう感じ、高校でも陸上を続けようと決心した。

秋本さんはバスケでも結果を残していたが、それでも陸上の道を選んだ

恩師のひと言で400mHに転向

福島県立双葉高校の陸上部に入った秋本さんは当初、棒高跳びや走り幅跳びなどのフィールド種目に打ち込んだ。それがあるとき、陸上部の顧問の先生のひとことがきっかけで、専門種目が変わった。これが400mHとの出会いである。

「フィールド種目だけをやってるのに、とにかく走らされたんですよ。半端なく走り込みをしてる中で走力がついてきて、大会で400mに出たら地区大会(相双大会)で優勝して、県にいったらぎりぎり決勝に残れないくらいのレベルだったんです。それを見た恩師が、跳躍をやってるからバネがあって400mも走れるから、ハードルがフィットするんじゃないかと思ったらしく、それで『やってみろ』となったんです」

トラック競技にはなじみがあるとはいえ、ハードルの経験はなかった。当初はいい結果が出ず、地区大会では最下位に。それでも高校2年生のときの県新人大会では5位入賞。秋本さんは思った。「インターハイって、東北大会で6位以内に入ればいけるんだよなって。そのあたりから自分への期待を持ち始めてました」

すべてはインターハイのために

400mHへの手応えをつかんだ秋本さんは、目標を高校3年生のインターハイ出場に定めた。そのために高校2年生の夏は、ひと足早く一人でインターハイの会場に赴き、競技を観戦。そこで受けた衝撃はいまでも忘れられないという。「同じ高校生とは思えないくらい異次元のレベルに見えたんですよね。1年後、自分が同じ舞台に立つためには、単に練習しているだけじゃダメなんだと痛感した記憶があります」

秋本さんはインターハイに出るために、事前にインターハイの観戦をした。「目指すべき舞台を先に見ておいたことは大きかったです」と秋本さん

そこから秋本さんは、常に実戦を想定しながら練習に励んだ。土のグラウンドでもオールウェザーのトラックをイメージして走ったり、自分よりタイムが速い選手と競っているシチュエーションを思い浮かべながらトレーニングに打ち込んだりと、意識を変えた。その甲斐もあって、高校3年生でインターハイに初出場。夢にまで見た舞台では予選落ちに終わったが、まだまだ成長できる実感があった。

秋本さんは言う。「スピードとか持久的なものだったり、それからハードリングだったり、突き詰められる要素がまだたくさんありました。それに、ちょっとずつタイムを更新し続けてたので、400mハードルへの可能性を感じられたんです」

このまま大学でも続けたい——。秋本さんはそう胸に誓った。

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