何度もはい上がり、きっぱり終えた競技人生 秋本真吾・3
大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。学生時代に名をはせた先輩たちは、4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ8人目は、トップアスリートたちに走りの指導をするスプリントコーチの秋本真吾さん(37)。3回目の今回は社会人時代からプロ転向、そして現役引退までの話です。
国際武道大学大学院を修了した2007年の春、秋本さんは焦っていた。3月になっても進路が決まらなかったからだ。途方に暮れた秋本さんは、ある人物に相談を持ちかけた。大学時代、法政大の練習に参加した際に接点のあった為末大さんだ。
為末さんと一緒にファンド会社で競技を続行
当時、日本陸上界のスター選手であり陸上の普及活動にも携わっていた為末さんとは、大学院時代も連絡をとり続けていた。その縁もあり、藁(わら)にもすがる思いで為末さんの自宅を訪ねた。「何としても陸上を続けたい」。秋本さんは必死に訴えた。すると翌日、為末さんから電話がかかってきた。「当時、為末さんはアジアパートナーシップファンド(APF)っていうアジアで一番大きなファンド会社に所属してたんですけど、『APFに陸上クラブをつくるから入っていいよ』って言ってくれたんです」
契約上、毎月の給料は保証されなかった。それでも秋本さんはAPFに入ることにした。陸上を続けられるならそれでいい。そう思って、日々の生活はアルバイトでカバーしようと考えた。「当時住んでた場所の近くに漁港があったので、まず朝の4時から9時まで朝市に出す魚を氷漬けにするバイトをやって、それが終わったらトレーニングセンターでの受付業務。そこから練習をして、終わったらホテル清掃のバイトをするっていう繰り返しの日々でしたね」。アルバイトをしながら競技を続ける生活は過酷ではあったが、当初はそこまで抵抗を感じなかった。
走っても走ってもタイムが上がらない
ただそうした生活は、秋本さんが当初描いていた社会人として陸上を続けていくイメージとは、かけ離れていた。ある日、ふと思った。「俺、何やってんだろう……」。いつしか現状への不満を抱くようになった。慣れないバイト生活にいままでに感じたことのない疲労感があった。そうした心身ともに疲弊しきった状態が、競技にも悪い影響を及ぼしていく。07年のグランプリシリーズ初戦、400mH(ハードル)で5位に入ったが、タイムは51秒25。自己ベストより1秒以上遅かった。
そのあとの静岡国際陸上で出たタイムはさらに遅く52秒7。見かねた為末さんから厳しい言葉を投げかけられた。「大学院を出て、この先も陸上を続けていくってどういうことか分かる? 4番、5番じゃ意味ないからね。3番以内に入らないと続ける意味がないよ」と。
それを聞いた秋本さんはハッとなった。果たして自分は、国内の主要大会で表彰台に立てる力があるのか。自分に問いかけてみても、首を縦に振れる自信はなかった。その後、日本選手権の参加標準記録を切れないほど伸び悩み、為末さんからは「日本選手権の標準を切れないような選手は、ウチには置いておけない」とまで言われた。「この世界で生きてはいけない人間なのかな……」。秋本さんの陸上人生はどん底まで落ちた。
理想の環境を求め「チームアイマ」へ
秋本さんは悩みに悩んだ。そして一つの結論を出した。「競技は続けたい。でもちゃんと規則正しく働いて、お金を確保して続けられる環境を見つけないとダメだなって思って。チームを変えてでも、競技を続けられる場を求めようと思ったんです」。秋本さんは自らのツテをたどって新たな環境を探し求めた。できる限り人と会い、可能性を探っていく中で見つけた一つの道。それが、釣り具メーカーである株式会社アムズデザインがサポートする陸上クラブ「チームアイマ」への所属だった。
「大学時代の親友が、チームアイマでキッズチームの監督をやってたんです。彼に相談したら『社長に聞いてあげようか? 』って言ってくれて。直接会える場を設けてもらえたんです。そこで『陸上を続けて、世界陸上やオリンピックに出たいんです』と伝えたら『君の夢を応援したいから、うちでよかったら入る? 』と誘ってくれました」
喜びをかみしめつつも、一つ気がかりなこともあった。APFでお世話になり続けてきた為末さんに合わせる顔がなかったのだ。自分から相談を持ちかけながら結果を出せないがためにチームを去れば、為末さんに申し訳ない。そう思っていた。しかし、実際は違った。秋本さんは言う。
「厳しい言葉をかけられるかと思ったら『よかったね!! 』って言うんです。『チームは変わるけど、練習はいつでも一緒にやろうよ』とか『自分で見つけてえらかったじゃん』とまで言ってくれて……」
07年から約2年間所属したAPFをやめてチームアイマに入った秋本さんは、アムズデザインの開発担当部署に配属された。午前9時から午後3時まで働いたあと、陸上部員3人が集まって練習する日々を送った。だが大会では平凡なタイムしか出ず、当時の自己ベスト50秒12の更新もできない。それでも秋本さんは、焦燥感や危機感を覚えなかった。「いつか、かみ合うときがくるはず」。何の根拠もなく、そう信じていた。
社長に問い詰められ、腹を括る
09年のシーズンが終わりに近づいてきたころ、デスクで仕事をしていた秋本さんは社長に呼び出された。問い詰められた。「お前、全然タイム出てないよね、って。本当にオリンピック行けるの? と言われたんです正直、そのときに『いけます』とは言えませんでした。ぬるま湯に浸(つ)かり出してたんです。いつまで競技続けようと思ってるの? って言われたんです」
心にポッカリと穴が開いた。その日は練習をする気にはなれず、自宅で今後の身の振り方をひたすら考えた。そして秋本さんは腹をくくった。「終わりを決めようと思ったんです。高校、大学、大学院ってどれも学年の終わりがあって、そこに向けて頑張ってこられたんですけど、その当時はそういう期限設定がない。じゃあ期限を決めてやってみようかと。それがロンドンオリンピックだったんです。3年後だったので、オリンピックに行っても、行けなくても、一旦そこで競技を終えようと思ったんです」
順大の練習で取り戻した自信
泣いても笑っても、陸上を続けるのはロンドンオリンピックまで。そう胸に誓い、やれることをやった。もう1度、真剣に陸上と向き合うために、秋本さんはまず環境を変えようと考えた。近場の競技場に行き、少人数でだらだらとやっていたら成長できるわけがない。「当時の順天堂大学には400mHでインカレ1、2位の選手がいて、ハイレベルな環境で練習できるんじゃないかと思って、当時コーチだった千葉佳裕さん(現城西大学監督)に連絡したんです。そしたら参加OKになったので、09年の冬から順大の練習に参加する生活が始まりました。仕事を終えて、会社のある千葉県旭市から1時間かけて順大まで行って、午後4時からの練習に参加するっていう毎日でしたね」
そこからの1年で、秋本さんは再び自信を取り戻した。10年になると、3年間51秒台と停滞していた中で自己記録に迫るタイムをマークし、日本選手権で過去最高の5位、グランプリシリーズでは2位に入った。特殊種目である200mHも走り、タイムは22秒80。当時のアジア最高をマークした。「人って変われるんだな」。そう思った秋本さんは、思い切ってプロへの転向を決めた。
「実は10年の夏に筑波大のメンバーと合宿をしたんです。その合宿が自分の中ではものすごく雰囲気やトレーニングの仕方もよくて、筑波で練習をしたいなと思うようになってました。筑波に練習拠点を移すと仕事との両立ができなくなる。でもそこであきらめたくなかったので、仕事をやめてプロになる道を選択しました」
けがでプランが狂い、オリンピックは遠く
収入のアテはなかった。スポンサーを探しても、箸にも棒にもかからない。しばらくはそんな状況が続いたが、化粧品会社を経営していた母親の紹介で一つの企業が興味を示してくれた。コラーゲン製品や乳酸菌飲料などを販売する株式会社ピーエス。コラーゲンが筋肉や骨、関節の強化にも効き目があることに目をつけた秋本さんは、自らがアスリート向けの宣伝役を担う代わりに、サポートを願い出た。この提案が受け入れられた。結果的に秋本さんは、サプリメントの製造・販売を担う株式会社ペプトワンと合わせた2社とスポンサー契約を結んだ。
しかし、こうした努力は報われなかった。11年、アキレス腱と膝の靭帯のけがに悩まされ、秋本さんの強化プランは大きく狂った。迎えた翌年の日本選手権。ロンドンオリンピック代表選考会を兼ねたこの大会で予選落ちに終わり、オリンピック出場という目標はかなえられなかった。秋本さんは、この結果を素直に受け入れられた。
「家に帰ってから、録画していた日本選手権決勝のレースを見たんですけど、正直決勝に残ったとしても勝てなかったなって思いました。けがなくプラン通りにいったとしても、やっぱり4、5番でしたね」
悔いなくきっぱりと競技人生に別れを告げた秋本さんは、第二の人生に向けて歩み出した。