陸上

連載:4years.のつづき

国際武道大に進み、“出稽古”で為末大と走った 秋本真吾・2

秋本さんはもともと、国際武道大は第一志望ではなかった

大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。学生時代に名をはせた先輩たちは、4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ8人目は、トップアスリートたちに走りの指導をする「スプリントコーチ」の秋本真吾さん(37)。2回目は国際武道大学、そして大学院で身につけたことについてです。

父の雄姿を見て始まった陸上の道 秋本真吾・1

国武大にあった驚きの練習環境

2001年2月、秋本さんの進学先は国際武道大に決まった。実は前年のうちから、国武大から声がかかっていたが、秋本さんはそれを断っていた。当時の心境を正直に明かした。「とにかく東海大に行きたかったんです。僕が高校3年生のとき、末續(慎吾)さんをはじめ、大学界のスター選手がたくさんいたので」

秋本さんは当初、スポーツ推薦で東海大を受験するつもりでいた。ところが高校時代の競技実績、評定平均とも基準に満たないことが分かり、自己推薦に切り替えた。実技試験は100m走。得意種目のはずだったが、思いのほかタイムが伸びずに不合格。その後、一般推薦、一般入試にもチャレンジしたが、いずれも受からなかった。

次に受けた日体大も100mでフライングをしてしまい不合格。最後に残っていたのが国武大だった。選考方法は実技と筆記試験。秋本さんは実技試験のできが合否を分けたと見ている。「100mで10秒7を出したんです。当時の監督さんから『100mのベストタイムはいくつだ? 』と聞かれたので『ハードルの選手なんです』って返したら、さすがに驚いてました。筆記試験の手応えはあまりなかったので、もしかしたらそれで受かったんじゃないかなと思いますね(笑)」

国武大に進学するとまず、充実した環境に衝撃を受けた。校内には400mトラックがあり、常に実戦さながらの練習ができる。野球部と併用のグラウンドでトレーニングに励んだ高校時代とは、まるで次元が違った。部員約250人の大所帯で、専門種目である400mハードル(H)だけでも強力なライバルがゴロゴロいた。

「陸上部に入りたてのころ、400mHをやってる部員の中でタイムが一番遅かったんです。同期が4、5人いたんですけど、彼らの力が勝ってたんですよ。でも当時は『自分よりタイムが速い選手たちと練習できるなんて最高じゃん』って思ってて、毎日の練習が楽しかったです」と秋本さん。力を伸ばせる環境に身を置けることが、とにかくうれしかった。

国武大時代の秋本さん。強力なライバルがゴロゴロいる環境にワクワクしていた(写真は本人提供)

もっと速くなりたい、その思いで法政大へ

底辺からトップへとのぼりつめるには、誰よりも練習するしかない。そう思った秋本さんはできるだけトレーニングに時間を割いた。まずは同学年の選手たちを追い越すために、夏の帰省期間も大学のある千葉に一人居残り、ひたすら陸上と向き合った。

努力は実を結んだ。練習で走り込みをした際、いつもはゴール地点に差し掛かるところで前にいた同期たちの姿が後ろにある。「『あれ?  あいつより自己ベストが遅いのに、俺の方が速いぞ』と思って。まずはそういうところから自信をつかんで、大学1年生の最後の大会で同期全員のタイムを抜きました。そうなると次のターゲットは関東にいる同学年のタイムを抜くこと。そうやってちょっとずつ目標を上げていきました。大学1、2年生のときは大きな大会こそ出られなかったんですけど、大会に出る度に自己ベストを更新できてたので、成長してる感じはあったんですよね」

3年生になると52秒台だった自己ベストを51秒台後半まで縮め、グランプリシリーズで初入賞。国体は準決勝まで進んだ。「俺でも勝てる可能性があるんだな」。そう思った秋本さんは、驚くべき行動に出た。みずからの力をさらに高めるために、法政大学の陸上部へ練習参加を申し入れたのだ。

もっと速くなりたい。そう思ったときに頭に浮かんだのは法政大だった

当時の法政大には2001年と05年の世界陸上で銅メダルを獲得した400mハードラーの為末大、04年アテネオリンピックで男子1600mリレー代表になった伊藤友広ら、そうそうたるメンバーがいた。そんな法政大を指導していた苅部俊二さんの連絡先を人づてに教えてもらった。「法政の練習に混ぜてください」。その秋本の願いに、苅部監督は応えてくれた。

坂道ダッシュで感じた自分への期待感

国武大の練習がない日は、法政大でトレーニングを重ねた。国武大の陸上部からすると、規律を乱しかねない身勝手な行動にもとれたことだろう。それでも秋本さんは周囲の目を気にせず、ハイレベルな環境下で有意義な時間を過ごした。「練習からかなわないレベルなのかと思ったら、坂道ダッシュで1本、為末さんに勝ってしまったんです。完全にぶっちぎられてたら、あきらめてたかもしれないですけど、1本でも2本でも勝つと、すごい自信になる。その状態で国武大に戻ると、今度は先輩との勝負で勝ったり、いいタイムが出たりするわけです。いけるぞ、ってなってましたね」

秋本さんの勢いは止まらない。大学最後の年は、関東インカレ、グランプリシリーズ、国体でいずれも入賞した。自己ベストを50秒台後半まで伸ばし、日本ランキングでトップ10入り。周囲からの評価は変わってきていた。それでも、秋本さんが陸上を続ける道は一つに限られていた。

「大学4年生の時点で、実業団入りが難しいのはなんとなく分かってたんですよね。でもいま、日本で10番目でしょと。頑張ればオリンピックとか、世界陸上にいけるんじゃないかと。まだ自己ベストを更新できる自信もありましたし、いけるんじゃないかと思ってました。結局、実業団入りがかなわなくなったときに、僕の選択肢は大学院しかなかったんですよね」

国武大の大学院で鍛えた脚と指導力

大学院で陸上を続けるにあたり、秋本さんの頭には環境を変える選択肢もあった。行き先の候補として考えていたのは筑波大。入試対策にも取り組んだ。しかしこのタイミングで環境を変えることに意を唱えていた父親の声に耳を傾け、国武大にとどまることにした。

「ちょうどそのころ、筑波大の博士課程を終えた眞鍋芳明さん(現・中京大陸上競技部混成コーチ)が母校のコーチに、元110mH日本代表の櫻井健一さん(現・国武大体育学部体育学科助教)が国武大の大学院に入るというタイミングでもあったんですね。陸上界で結果を残している方たちも来るなら、環境を変えずに頑張ってみようかなと思い直したんです」

秋本さんは国武大の大学院に進んだ。結果として、この決断は功を奏した。大学院2年目のシーズン最終戦、400mHで自己ベストとなる50秒12をマーク。さらに200mHでは22秒86の当時のアジア最高記録、日本最高記録、学生最高記録を打ち立てた。

大学院時代にはコーチも経験していた秋本さん。この頃から指導者としてのやり甲斐を見いだしていた

大学院で充実の競技生活を送っていた秋本さんは、その傍ら、陸上部のコーチとして学生の指導にもあたっていた。それもまた、やりがいのあるものだった。何よりうれしかったのは、後輩たちにいい影響を与えられたこと。秋本さんは言う。

「成長するには外の世界を知らなきゃダメだと言い続けてて、実力のある学生に当時、短長ブロックでは日本一だった筑波大の練習に参加させてもらったらどうかと提案しました。実際、僕が大学の時に法政大の練習に参加していい経験ができたので、後輩たちにも同じようなことを味わってほしいなと思って。それで戻ってきたら言うんですよね。『全然意識が違いました』って。それに気づけただけでも、彼らにとっては意義のある経験だったと思います」

こうして大学院での2年はあっという間に過ぎた。秋本さんは次のステージでも陸上を続けるイメージを描いた。「実業団で続けたい」。そう覚悟を決めた秋本さんの前に、大きな壁が立ちはだかった。

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